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吉田松陰から門下生への書簡〜吉田松陰の名文を読む〜



このページは吉田松陰が門下生たちに送った書簡などをご紹介します。
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※このページにあるすべての資料(PDF、テキスト)は、
吉田松陰研究者の長谷川勤先生が作成した資料を、ご厚意により許可を頂き公開しているものです。
(長谷川先生が担当されている松蔭大学の授業「吉田松陰論」で実際に使用されたもの)
漢字にはルビがふってあり、用語解説も付いているので
吉田松陰の著名な名文を堪能することができます。


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★目次★(書簡名 or 題名) 相手 著述西暦 著述和暦 松陰年齢
「士規七則」 玉木彦助 1855年 安政2年1月 26歳
「松下村塾記」 久保五郎左衛門 1856年 安政3年9月 27歳
「留魂録」 門下生達 1859年 安政6年10月 30歳
「草莽崛起論」 北山安世 1859年 安政6年4月 30歳
「二十一回猛士の説」 自分(吉田松陰) 1854年 安政元年11月 25歳
「高杉暢夫を送る叙」 高杉晋作 1858年 安政5年7月 29歳
「杉蔵を送る叙」 入江九一 1858年 安政5年7月 29歳
「吉田無逸を送る叙」 吉田稔麿 1857年 安政4年9月 28歳
「日下実甫の東行を送る叙」 久坂玄瑞 1858年 安政5年2月 29歳
「子遠に語ぐ」 入江九一 1859年 安政6年正月 30歳
「富永有隣の帰省を送る叙」 富永有隣 1857年 安政4年9月 28歳
「松村文祥を送る序」 松村文祥 1846年 弘化3年(月不詳) 17歳
「岡田耕作に示す」 岡田耕作 1858年 安政5年正月 29歳
「諸生に示す」 門下生達 1858年 安政5年6月 29歳
「煙管を折るの記」 門下生達 1857年 安政4年9月 28歳
「妹・千代宛て書簡」 妹・千代 1854年 安政元年12月 25歳
「家大人に別れ奉る」 松陰の家族 1859年 安政6年5月 30歳
「父叔兄宛て別離書簡」 松陰の家族 1859年 安政6年10月 30歳
「入江杉蔵宛て書簡(大学構想の事)」 入江九一 1859年 安政6年10月 30歳
「福堂策」 1855年 安政2年6月 26歳
「七生説」 1856年 安政3年4月 27歳
「三余説」 1855年 安政2年4月 26歳
「西遊日記-序-」 1850年 嘉永3年9月 21歳
「睡余事録」 1852年 嘉永5年5月 23歳
「宮部鼎蔵宛書簡」 宮部鼎蔵 1853年 嘉永6年6月 24歳
「奉拝鳳闕詩」 1853年 嘉永6年10月 24歳
「宗族に示す書」 松陰の一族 1853年 安政6年5月 30歳
「諸妹宛書簡(江戸召喚の事)」 松陰の妹達 1859年 安政6年5月 30歳
「東行前日記」 1859年 安政6年5月 30歳
「松陰全集・楫取素彦関連記事」 1859年 安政6年12月 30歳
「吉田松陰名語録」
「吉田松陰自賛肖像について」
「徳富蘇峰『吉田松陰』改訂版緒言」



※PDFプリントアウト推奨



士規七則(PDF形式)
士規七則(テキスト形式)

※参考リンク:士規七則 現代語訳(外部サイト)

【解説】「士規七則」は、野山獄における思索の間に執筆したものを、叔父玉木文乃進の添削を経て成ったものであり、たまたま加冠を迎えた玉木の嫡男英彦介に、その大成を祈念して贈られた。下田踏海の件で罪を得て囚徒と成った松陰である。だが、そこには一般の囚徒に見られる恥辱の思いとか罪の意識はなかった。逆に、その挙を「猛」と把えて「二十一回猛士の説」を綴り、また『幽囚録』においてはその挙が日本の国にとって不可欠で正当な行為であることを論証する松陰であった。こうした野山獄中での思索は、さらに人間の真の在り方、武士たる者の生き方の指針に思いを馳せることになった。
「士規七則」はそうした過程で発想された。第一則は、人間の人間たる所以を、第二則は皇国民の立場を、第三則と第四則は個人としての士道の在り方を述べ、第五則以下では士の道を確立するための心がけるべき事柄を記している。なお、「右士規七則、約して三端と為す。」に始まる後文の「端」の語は端緒の端で物事のきっかけ、糸口を意味するもので「立志、択友、読書」の三者を持って七則を確実に自分のものにするための不可欠の端緒としていると解すべきであろう。「士規七則」が松下村塾生達の指針とされたことは言をまたないが、戦前の男子中等学校の中には、これを生徒の生活指針として活用したところも少なくなかったようである。



松下村塾記(PDF形式)
松下村塾記(テキスト形式)

※参考リンク:松下村塾記 現代語訳(外部サイト)

【解説】「松下村塾記」は、当時松下村塾の名で以て私塾を経営していた外叔(※注:母方のおじ)久保五郎左衛門の求めに応じて松陰が書き贈ったものである。それは村の名前を冠した塾の教育の理想とその責務の大きさが述べられており、その抱負はまことにおおきい。文章もまた雄渾で口誦して士気の高まりを覚えるものがある。松陰自ら、「略ぼ志す所を言ふ」(小田村伊之助宛書簡、安政三年十一月二十日)と述べており、自信の作であると言えよう。
ここで松陰は、教育の使命を、君臣の義をわきまえ、「華夷の弁」を明らかにした「奇傑非常」の人を育成するところに置いている。この考え方は後に自ら主宰者となった松下村塾においてはもとより、彼の終生変わらぬ教育観であった。なお本文については、それが自然の形勢からある種の哲学的見解をさぐり出している考え方は東洋的であるという指摘もある。(玖村敏雄)(『吉田松陰撰集』(財)松風会刊行より)



留魂録(PDF形式)
留魂録(テキスト形式)


※参考リンク:留魂録 現代語訳(外部サイト)

【解説】留魂録は、処刑の前日、夕刻に書き上げられたものであるが、松陰は、長州人に届けられる前に没収されることを心配して、二通書いた。一通は予定通り長州に届いたが、門下生が読みまわしたり、書写をしているうち、行方不明となってしまった。しかし、もう1通は牢名主の「沼崎吉五郎」に託していた。沼崎吉五郎が、遠島の刑期を終えて伊豆諸島から戻った時は、徳川政府は消滅し、明治新國家になっていた。沼崎吉五郎はその後、松陰の願いどおり、当時神奈川県の知事をしていた野村靖(入江杉蔵の弟)に事情を告げて手渡した。
これが、今も萩の「松陰神社」に残る留魂録である。此のお陰で、私達は現物を見ることが出来る。この「留魂録」を読んだ門下生の、国事行為への奮起が新政府誕生の原動力となった。



草莽崛起論・北山安世宛て書簡(PDF形式)
草莽崛起論・北山安世宛て書簡(テキスト形式)


※参考リンク:草莽崛起論 現代語訳(外部サイト)

【解説】北山安世は、松陰が終生、師と仰いだ佐久間象山の甥であり、嘉永六年江戸遊学以来の友人である。このとき、北山は長崎遊学の帰途、萩に立ち寄った。松陰は北山に自らの時局観を披瀝し「独立不羈三千年来の大日本...那波列翁を起してフレーヘードを唱へねば腹悶医し難し」と憤激の念をぶちまけ、ついに「草莽崛起の人を望む外頼みなし」と言い切っている。草莽崛起の人に頼る外ないと明言していることが注目される。しかも、もともと外国通であり、また長崎遊学をしたばかりのこの友人から、新しい情報とともにその意見をなお聞こうとする松陰である。なお北山とは四月十一日と目される日に面談したものと思われるが、外部をはばかってか「北山安世を夢む」(四月十一日、『己未文稿』)、「重ねて北山君を夢む」(四月二十一日、『己未文稿』)とあるように「夢」にことよせている。



二十一回猛士の説(PDF形式)
二十一回猛士の説(テキスト形式)


※参考リンク:二十一回猛士の説 現代語訳(外部サイト)

【解説】この「二十一回猛士の説」は幽囚録付録に収載(松陰全集第二巻:87頁)されている。これは、安政元年(1854)十一月前後(この時、松陰は野山獄に収監中)に書かれた。松陰も号であるが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使った。これは、その由来を書いたものである。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけである。すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田密航)を犯したが、まだ十八回も残っている。今後、大八洲(日本)のために、身を挺して尽くす勇気ある行動=(松陰が自称)を起そうという決意の表明である。憂国の志士と言われる一端が垣間見えるようで、大変面白い。結局はこの三度の「猛」を発した行動で生涯を終えるのであるが、こうした心意気をこめた行動を、藩も幕府もこの国難(夷敵からの植民地化の可能性)に存亡をかけて立ち向かう気力もない。したがって、松陰の晩年に「藩も幕府もいらぬ、ただこの六尺の微躯が入用」(安政6年、野村和作宛て書簡)という結論に達した時に、幕府から呼び出され、「安政の大獄」の最後の犠牲者として処刑されてしまう。
しかし、「松陰精神」は門下生等に継承されて、長州藩は幕末政局に縦横無尽の活躍となり、明治維新の大変革の立役者となる。吉田松陰が「維新の先覚」と呼称される所以である。松陰の門下生から逸材が沢山出たが、ここにも淵源を求めることができるというわけである。松下村塾が、百姓屋敷の「物置小屋」を改造した、粗末で小規模な「私塾」でありながら後世に名を残すことになったのは、松陰のこうした「国を思う心」と実践を門下生に指導した結果である。



高杉暢夫を送る叙(PDF形式)
高杉暢夫を送る叙(テキスト形式)

【解説】この送叙は数ある松陰の送叙の中でも、とりわけ教育的見地から高く評価されている名文の一つである。尊敬する師から、厚い信頼と激励、期待を込めたものが読み取れ、子弟教育の見本のような文であるばかりでなく、弟子として暢夫が発奮し使命感に燃えて活躍することになる。それは、後に松陰の「草莽崛起」の考えを継承した暢夫の「奇兵隊」組織となり、幕末史の長州藩の大車輪の活躍(尊王討幕運動)へと連なって行く。
松下村塾における松陰の子弟教育(人間教育)のハイライトの一つとして、特筆される名文である。期待を一心に受け、発奮する暢夫の、その後の活躍がこうした教育の在り方から維新回天の人材育成の手法が、松下村塾をして一躍有名たらしめた一端を窺うことが出来る。教育者松陰の面目躍如たる一面を知るに格好の史料でもある。



(入江)杉蔵を送る叙(PDF形式)
(入江)杉蔵を送る叙(テキスト形式)

【解説】入江杉蔵二十二歳、飛脚として江戸から帰国した時、初めて松陰を訪ねている。本文は、その数日後再び江戸に向かって出立する際に贈った送叙である。この数日の間に松陰は、「吾れの甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂ひの切々なる、策の要なる吾れの及ぶ能はざるものあればなり」と杉蔵の本領を見抜いている。杉蔵は松陰に深く師事し、松陰の晩年には、思想や心情において最も身近にあって行動した人物である。
本文末尾の「杉蔵往け。月白く風清し・・・」は名文として知られているが、それはただに美しい文章であるだけでなく、「天下は大物なり」と言い切って杉蔵の覚悟を新たにさせるとともに、彼に大きな期待を寄せていることで迫力と説得力を持っている。



吉田無逸を送る叙(PDF形式)
吉田無逸を送る叙(テキスト形式)

【解説】安政四年八月、吉田栄太郎(無逸)が江戸に出役する際に贈った送叙である。そこには、栄太郎が指導していた音三郎(彼はこの時、十七歳、市之進や溝三郎と同じく吉田栄太郎に伴われて松下村塾に来た「無頼」の少年の一人である。松陰は音三郎が初めて来塾した時、彼の「容止温詳」な様子をみて「一見して与せり」として指導に乗り出している)、市之進、溝三郎の三少年は確かに引き受けたことを述べるとともに、江戸での胥徒と云う仕事に栄太郎がうまく適応するかどうかを憂慮している。
胥徒の仕事は繁雑瑣屑、やってもやっても切が無く、休みの時の外出も上司が厳しく様子を聴くといった具合で、才気ある者は、ややもすると破れるか折けるか、しかねないものである。だから栄太郎の才気と頑質を知る松陰は心配で、誠を以て事に当ること、また折角経験する大都会である、「無逸更に其の大なるものを観よ」と励ましている。なお、八月二十八日付の松陰から栄太郎に宛てた書簡によると、「上張地一」を贐として贈って居り、また栄太郎を自分の志を継いで欲しい人間として期待していたことがわかる。



日下実甫の東行を送る叙(PDF形式)
日下実甫の東行を送る叙(テキスト形式)

【解説】久坂玄瑞は前年十二月に松陰の妹文(美和)と結婚している。本文は学業稽古のため三年間の江戸留学の途につく玄瑞に贈った送叙である。「狂夫の言」に言う「大患」の最中の東上である(二月二十六日出立)。松陰にとっては義弟であり、長州藩の少年第一流の人物と見込んできた玄瑞である。
ここにおいて、天下の英雄豪傑の士との討論を通じて、日本の進むべき方向を模索してくるよう激励している。玄随も正月十三日には国老益田弾正に書をおくり、時局打開のために家老に期待するところを述べている。「國相益田弾正君に上る書」(久坂然瑞全集)。松陰はまた江戸にある桂小五郎及び長原武に宛てて玄瑞のことを頼んでいる。(「桂小五郎宛」二月十九日、「長原武宛」二月二十八日)。



子遠に語ぐ(PDF形式)
子遠に語ぐ(テキスト形式)


【解説】松陰が「草莽崛起」の数々の実践を提唱して、門弟に実践行動を促した時、当時、江戸にいた高杉、久坂などの高弟は、機が熟してなく、タイミングは不可、と時期尚早論の返信を寄せてきた。これに対して松陰は「諸友は功業をなす積り、僕は忠義をなす積り」との有名な、不満のことばが発せられる。同時に、この文献は、門下生の評価、印象を、信頼する入江だけに打ち明けたものと思われる。松下村塾の人物評価を打ち明けた、興味ある文献である。おそらく、入江でなければ打ち明けなかったであろう。当時の孤独な松陰の、唯一の安心して語れる門下生が、四天王の一人に挙げられる「入江杉蔵」だったのであろう。師の松陰も、苦悩していた時である。



富永有隣の帰省を送る叙(PDF形式)
富永有隣の帰省を送る叙(テキスト形式)


【解説】安政四年九月、松下村塾の賓師(客員教師)富永有隣が、母の元に帰省する時に贈った送叙である。有隣は嘉永五年、三十二歳の時見島(現山口県萩市)に流されて以来、今六年目にして母に逢う為の帰省である。本文の前段は有隣送別の日の模様を記しているが、よく松下村塾の雰囲気を伝えていると思われる。議論している者、それを聞いている者、読誦する者、また疲れて横になっている者、などなど各人各様であるが、「皆文武有志の士」である。本文後段において、有志の士が多いと言われている南部(帰省先の山口市陶は萩市からは南部に当たる)に帰る有隣に「雋」なる者を見出して来いと使命を与えている。なお、国木田独歩の「富岡先生」は有隣がモデルと言われている。



松村文祥を送る序(PDF形式)
松村文祥を送る序(テキスト形式)


【解説】これは同学の松村文祥が安芸へ修業に行くので書いたものである。松陰の同学(松下村塾での)に書き与えた「送序」である。送序というのは、人が旅立つときに、その人への期待や旅の意義、安全等を書いて「贈る言葉」である。松陰は生涯に30通あまりの「送序」を書いている。特に松下村塾時代の門下生への「江戸や京阪への遊学」には、心を打つものが多く、村塾の教育方法の大きな柱でもあった。
ここで注目したいのは、この文に「志」という語が6回も使われている。後年「志を立てて以て万事の源と為す」という名言を遺したが、学問、修業にあたって「志」を重んじた証である。ここでは「医学修業の旅立ち」だが、これが成功するか否かは「志」如何であるといっている。松陰は17歳で、自身も山鹿流兵学師範の修業に勤しんでいた時期である。おそらく、自分にも言い聞かせながら書いたに違いない。



岡田耕作に示す(PDF形式)
岡田耕作に示す(テキスト形式)

【解説】岡田耕作が年賀でなく、学習の為に来塾したことに感銘して書き与えたものである。幼時、松陰は、兄と勉学中、兄が「今日は祝だから、勉強を休もう」と言った時、一年のうちの一日には変わりがないから、勉強しよう、といって、兄を困らせた逸話がある。だから、岡田の祝日の挨拶と共に、教えを請う態度に感動したに違いない。この記事は、その感動そのままに記されている。松陰の誠実さを物語る一端である。
耕作はこの時十歳、その「厚く自ら激励」している姿に感じたもので、それは、「学問の大禁忌は作輟なり。或いは作し、或いは輟むることありては遂に成就すること無し」(『講孟余話』公孫丑(上)第二章)と常々考えている松陰の持論に発したものといえよう。松陰からこういう文を与えられて褒められ励まされたことは耕作にとって生涯忘れられないことだったであろう。耕作のその後の経歴は不明である。『戌午幽室文稿』は、安政五年(戌午)に執筆された文稿、書簡などを合わせて九十九篇を集録し、附録として数種の漢詩を載せている。当時の松陰の思想、心情、人間関係などを知るうえで貴重である。



諸生に示す(PDF形式)
諸生に示す(テキスト形式)



煙管を折るの記(PDF形式)
煙管を折るの記(テキスト形式)


【解説】松下村塾記で主催の理念を謳いあげた「塾」がどんなものであったか。「諸生に示す」は松陰の指導者としての非凡さを垣間見れる記事といえる。それは「個別指導と、集団指導」に常に意を用いながらの手法であった。後年「松下村塾出身者」がの多くが、活躍し、幕末維新期に活躍する教育の、原点が、この記事から読み取れれば充分である。「煙管を折るの記」は、「送序文」や「塾生個人に與ふる書」などが、個人教育の、見本例とすれば、これは「学習集団」の雰囲気を伝えるものである。「士風」に、就いての論議が、「岸田生」に及んだ時、同席して話し合っていた者全員が、禁煙を誓うと言い出す。「訝る」師に「吾が言を疑うか?」といい、岸田の為だけ、出ないという。今日でいえば「風通しの良い」「塾風」という事になろうか。松陰は、このように、一方で塾生の自主性を重んじていたのである。



妹・千代宛て書簡 安政元年十二月(PDF形式)
妹・千代宛て書簡 安政元年十二月(テキスト形式)


【解説】松陰が萩の野山獄から出した安政元年十二月三日の日付の手紙であり、、松陰が野山獄に投獄されて50日程経過したころの手紙である。人の道、婦人の道、誠の在り方、孝行の在り方など、松陰の価値観、人生観がわかる。最後に、俳句の指導をしている。千代この時23歳。下田蹈海に失敗して、幕府裁決と異なり、自宅蟄居どころか、野山獄に投獄、その身の上を心配して、心遣いの差し入れをした妹に感謝しつつ、松陰の思いを綴ったもので、美しい兄弟愛が窺える。



家大人に別れ奉る(PDF形式)
家大人に別れ奉る(テキスト形式)


@神國由来(PDF形式)
@神國由来(テキスト形式)

A文政10年詔(PDF形式)

A文政10年詔(テキスト形式)

【解説】松陰の生家は「無給通り」といって、萩藩士席班中の下位の家格であった(因みに高杉は大組という中の上位)。それにより藩からの給与だけで暮らせず、半士半農でしのがざるをえなかった。父・百合之助は、松陰と兄の梅太郎を田畑の作業に同行し、畔で四書五経他を口誦して覚えた。@「神國由来」やA「文政十年の詔」の「尊王に関する」話などであった。安政六年五月二十三日、幕命で江戸行きの時、「家大人に別れ奉る」の漢詩を残し、両親への感謝と、江戸での評定に臨む心構えを書き綴った。この漢詩に、@「神國由来」とA「文政十年の詔」が幼児の思い出として残っていると告白している。いわば、松陰の「尊王精神」の原点ともいえる。したがって、この三つの著作は関連させると、松陰への理解をより深めることができる。@「神國由来」は口には熟す、秋洲の一首、A「文政十年の詔」は耳には存す文政十年の詔、と書かれている。また、青年になって、兄への手紙で「矩方の幼なるや畝甫の中に成長し」と回想しても居る。



父叔兄宛て別離書簡(PDF形式)
父叔兄宛て別離書簡(テキスト形式)


【解説】死罪を覚悟して、親族に宛てた「別離」の手紙。万感胸に迫って来て、涙なくして読めない。吉田松陰の「親思い」の人柄を示す有名な書簡である。



入江杉蔵宛て書簡・大学構想のこと(PDF形式)
入江杉蔵宛て書簡・大学構想のこと(テキスト形式)


【解説】死罪を確信してからの十日余り、松陰は身辺整理と心の整理に忙しかった。この書簡は、かねてからの念願であったが、「学校」の実現困難を、入江に託している。およそ普通の精神力ではなく、死の直前まで最善を尽くそうとする姿に感動を禁じえない。



福堂策(PDF形式)
福堂策(テキスト形式)

【解説】この「福堂策・上」は、安政二年六月一日夜に書かれた。松陰が収監されて、凡そ半年経過し、この間に有名な「獄中勉強会」を提唱した松陰は、この経験に基づいて、「獄中」といえども「福堂」に変え得ると確信した。松陰の人間観は、『孟子』を勉強した為に「性善説」に立っており、罪人といえども、教育によって再生の方向に善導できると考えていたようだ。とりわけ、「人賢愚ありと雖も一、二の才能無きは無し」は、努力して自らの才能を開花させることで「生きがい」を見出し得るとの考え方は、大変に素晴らしい。
難解な文言が並ぶのが松陰の文章の特徴であるが、「振り仮名」をつけずに原文を転記して見た。この考え方と、「獄中勉強会」の経験が後に「松下村塾」へと連なっていくのである。



七生説(PDF形式)
七生説(テキスト形式)


【解説】楠木正成の精神が、朱舜水に、また自らの内にも伝わり生きていることを実感した松陰は、そこから精神の不滅を確信し、これを理気の説でもって説明する。そして楠公その他の優れた人々と理を一にしている自分の精神を、七生の後の人々までもこれを受け継ぎ奮い立って欲しいものだと願う。彼は幽室に「三余読書」と「七生滅賊」を座右の銘として掲げて自らを励ましていたが、「七生説」はその頃の松陰の人生観を示すものとして重要である。



三余説(PDF形式)
三余説(テキスト形式)


【解説】松陰が、下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に、618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても、兄梅太郎の協力があってこそのことである。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛は美しい。そのこともあってか、松陰は「三余説」を著して自分の読書欲のあり方をここで云っている。獄中で余暇がたくさんあるのを、無駄にすべきでないと考える松陰であった。



西遊日記「序」(PDF形式)
西遊日記「序」(テキスト形式)


【解説】松陰は19歳で、「山鹿流兵学師範」となった。真剣な厳しい修業に堪えての成果である。以後、自藩(長州藩)以外に、修業の場を求めて、全国行脚が開始される。初めての藩外の遊学先である、「肥前の長崎、平戸」に出発した時に綴ったものが掲題の「序」である。時に、松陰21歳の夏。この原文は短文だが、意味が深長で、ここから松陰の遊学が始まる。嘉永三年(1851)8月25日出発、修業を終えて帰宅するのが、この年の大晦日である。この旅行中から、「義卿」の字を用い始めた。この旅の成果は大きく、長崎でオランダの軍艦に乗船している。パンを生まれて初めて食す。葡萄酒も初めて飲む。何より、平戸の葉山佐内という「陽明学者」を訪ね、『傅習録』に出会う。後期水戸学の、会澤正志斎の『新論』も讀む。アヘン戦争の始末記も。こうして世界に目が開けていくのである。相当量の読書して「佳語」をたくさん抄録した。



睡余事録(PDF形式)
睡余事録(テキスト形式)


【解説】これは、「江戸修業中に」ロシアの船が、北方に近海に現れ、時に上陸して、問題になっているとの報を得て、盟友の「宮部鼎蔵」と、北海の沿岸防備の視察に出掛けるのであるが、他国通行に必要な「過所手形」の発行を待たずに、桜田の上屋敷を出奔し、帰国後に、藩から御咎めを受け「國元蟄居」を命ぜられ、萩に戻り、藩からの裁決待ちの「待罪期間」中の記録である。松陰の生涯の最初の「問題行動」の第一囘である。「脱藩と見做され」、江戸期の武士にあっては、藩主を裏切ることになり、その罪は重い。結果は、吉田家取り潰し、従って「山鹿流兵学師範」も喪失。浪人となる。後年、この報をきいた藩主は「國の宝を失った」と漏らしたと聞き、松陰は感激している。この旅で、「水戸にて会澤正志斎」の教えを聞き、松陰は日本の成り立ち、を知る。猛烈に「史書」を読破していることが書かれている。「水戸学」が、松陰へ大きな影響を与えたと云われる所以である。



宮部鼎蔵宛書簡(PDF形式)
宮部鼎蔵宛書簡(テキスト形式)


【解説】この書簡は、前年(嘉永4年12月から5年4月迄、東北旅行を共にした)以来の音信が絶えていたが、「過所手形」なしで挙行したため、藩政府から処分を受けたこと。そして「特別なはからい」で、諸国修業を許されて、京阪、大和地区の名士を訪ねて語り合って、再度の江戸着となったことが綴られている。江戸に着いてからの近況や、仲間たちの動向を伝えると同時に、「ペリーの浦賀来航」に出会い、浦賀に急行して観察したことや、「米国大統領の親書を栗濱で受け取った」こと肥後にいる宮部鼎蔵に知らせた手紙である。
この「事件」は、松陰の人生にとっては「一大事件」であった。以後、松陰の人生は、動乱の中に身を投げ入れることになる。平凡な「泰平なる暮らし」は、彼の人生観にとっては、「ありえないこと」であった。「大和魂」に象徴される、彼の日本人としての自覚は、この後ますます昇華していく。日本人としての誇りは、幼時から徐々に培われたものであろうが、至純な松陰の精神は、純化され続けて、己の命以上に「損なってはならぬもの」として認識されていった。この思いや、松陰の人となりが、後年、多くの人々を感化させることへと発展して、遂には、自分の生命以上に、民族の栄えることが松陰にとって、最高価値となってゆく。この書簡は、松陰の数ある書簡の中でも、とりわけ重要な意味を持つと思われる。松陰の文章は、文語調で、漢学の修業を積んだだけあって、独特な文体、表現、難解な漢字が並ぶが、意訳すると文意が損なわれる可能性があり、そのままとした。
(書簡中にある『此の時こそ日本刀の切れ味を見せたきものなり』という、意味深長な文言は、何を意味するか。この部分を、『ペリーへの刺客』と解釈して、『下田渡海考』の論文を書いている松陰研究者もいる)



奉拝鳳闕詩(PDF形式)
奉拝鳳闕詩(テキスト形式)


【解説】松陰は、長崎からロシア船に乗って海外渡航を旨に、江戸を立った。その途中、京都で梁川星巌に逢い、時の「孝明天皇」が、日本及び日本人の、安寧を期して祈りをささげているという話を聞かされた。感激した松陰は、翌日皇居に向かって遥拝し、有名なこの詩を詠んだ。美しい詩であり、松陰の「尊王」の思いが伝わってくる。いまは「宮内庁書陵部」に保管されている。(「長崎紀行」収録)



宗族に示す書(PDF形式)
宗族に示す書(テキスト形式)


【解説】東行を目前にして一族の将来について、一抹の不安を松陰は抱いていた。此の一族が生活の指針としていたのは「忠厚勤倹」であった。この家風は、百合之助、大助、文之進をそれぞれひとかどの人物に育て上げた祖母岸田氏によって作り上げられたものと松陰は謝意をいだいていたようである。松陰にとって気がかりなのは、今は父や兄の力で杉家は安定しており、そのため反って勤倹の気風が廃れつつあると思われることであった。
妹の千代に宛てた書簡でも「父母様のご苦労を知って居るのそもじまでぢゃ。小田村(寿)でさへ山宅(松陰達が生まれ育った団子岩の家)の事はよく覚えまい。増して久坂(文)なんどは尚ほ以ての事。されば拙者の気遣ひに観音様を念ずるよりは、兄弟、をひ(甥)、めひ(姪)の間へ、楽が苦の種、福は禍の本と申す事を篤と申してきかせる方が肝要ぢゃ」(妹千代宛・安政六年四月十三日・全集第八巻、三○二頁)と言い聞かせている。(松風会刊行・吉田松陰撰集より)
自らの死を予感しつつも、一族の将来に思いを致す松陰の人となりに、吾々は心打たれる。本来は、自分の生命の危険を予知したら、己のことへの思いに精一杯であるはずなのに、ここが松陰の人間性を感じさせるところで、こうしたことが不朽の名を残す一因なのかも知れない。松下村塾での教育の成功は、門弟の出世の実態に焦点をあてたものが多いが、人間の「感化力」は、知識や行動のみでなく、松陰の言う「人の道」を歩む人生態度の中に見出されるべきだと思うのである。それ故に、松陰の愛国心は、以心伝心で門下生の国事行為に繋がって、民族の独立を全うさせる使命に立ち向かわせる原動力となったのであろう。こうした事実の中にこそ、「維新の精神的指導者」としての松陰の偉大さを見出すべきであろう。



諸妹宛書簡・江戸召喚の事(PDF形式)
諸妹宛書簡・江戸召喚の事(テキスト形式)


【解説】安政六年五月、野山獄にあった松陰は兄より「幕府召喚命令」を伝えられた。生還の実現性が少ないと考えた松陰は、嫁いでいる妹たちに事情説明と心の内を語り、なおかつ「婦人の道」を説きつつ、従兄弟の高須為之進に教育の一助を願えと進言している。



東行前日記(PDF形式)
東行前日記(テキスト形式)


【解説】東行前日記は松陰三十歳の夏即ち安政六年五月十四日に、幕府より江戸召喚の命が下ったことを聞き知ってから、同月二十五日に出發するに至る間の日々の漢詩文和歌を中心とし、諸所に漢文を以て記事を挿入した謂わば萩における訣別遺言に相當するものである。



「松陰全集・楫取素彦関連記事」(PDF形式)
「松陰全集・楫取素彦関連記事」(テキスト形式)


【解説・意訳】楫取素彦が、松陰の処罰に反対し、いろいろ手を尽くしていることが書かれている。処罰の時には「毛利藩政府」にいつも、周布政之助が主導的役割をしていることの、巡りあわせから『偶記』と題名をつけたのかもしれない。楫取の実弟である「小倉健作」も、松下村塾の教師として招聘したく、楫取と相談したとある。松陰は、楫取の三兄弟を大変信頼していたのであった。 だから、二番目の妹の「壽」が小田村伊之助(楫取)へ嫁いだ知らせ(兄・梅太郎からの手紙)に対して、学問のある人物との結婚に賛意を表したのであった。 現代語訳(大意)はこちら
※楫取素彦(小田村伊之助):松陰からの信頼が厚く、松陰の妹二人の夫となった人物。初代群馬県令など要職を歴任。



吉田松陰名語録(PDF形式)
吉田松陰名語録(テキスト形式)


【解説】吉田松陰は、いくつかの「名語録」とでも云うべき、印象的なことばを遺している。今日は、私の好きな「15の語録」を書きだしてみた。松陰の学問は「誠」に象徴されるごとく、心を打つものが多い。そして、「志」にちなむことばが印象的である。一面、「詩人」と称す人がいるのも首肯しえる。



吉田松陰自賛肖像について(PDF形式)
吉田松陰自賛肖像について(テキスト形式)


【解説】今日に残るる「吉田松陰」の姿は、写真機の普及していなかった幕末期には、限られた人物しか残されていない。第一号は「島津斉彬」の肖像写真であると云われている。これは、現存している。一方、吉田松陰は、その機会に恵まれず、門下生の「似顔絵」の絵画が現存。安政六年五月、幕府からの召喚命令を受けた松陰。これを鋭く察知した妹婿の久坂玄瑞の提唱で、松陰の肖像画が画かれた。滿28歳と9カ月の時のものである。
これは、吉田家本、杉家本、久坂家本、品川家本、岡部本、中谷本が現存。ほかに、「賛」文のみのものが、「福川」「松浦」宛てに画かれたと云われているが、福川のものは残されている。松浦のものは行方不明。この肖像画の上部に、「賛(さん)」と「跋(ばつ)」とが書かれている。跋は、一段下げて書かれていて、宛先に応じて文意が異なる。



徳富蘇峰の『吉田松陰』改訂版緒言(PDF形式)
徳富蘇峰の『吉田松陰』改訂版緒言(テキスト形式)


【解説】徳富蘇峰は、明治26年、自由国民社から「吉田松陰」を刊行した。いまでも、岩波文庫にて讀むことが出来る名著である。しかし、松陰の直接、間接の「門下生」たちは、「松陰を革命児」として描き出した本書に批判的であった。その後、日清・日露の戦役を経て、徳富自身「思想的変容」をとげたこともあって、明治41年、改訂版を刊行した。その「緒言」である。松陰研究者間では、前著に比して好評ではないものの、一般の松陰支持者の間では、大変愛読された。
それが証拠に、初版が明治41年だが、その後改版を含めて増刷を重ね、大変な数量が刊行され続けた。文中下線を引いたところに、野村靖(子爵)と、乃木希典(陸軍大将)の個人名が書かれている珍しい「緒言」である。



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