「松陰の勉強ぶり」

松陰が、下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に、618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても、兄梅太郎の協力があってこそのことである。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛は美しい。

そのこともあってか、松陰は「三余説」を著して自分の読書欲のあり方をここで云っている。

獄中で余暇がたくさんあるのを、無駄にすべきでないと考える松陰であった。

 

短文であるが、原文を下記する。

三 余 説」

(野山獄文稿)全集第二巻収載316頁安政二年(一八五五)四月二日 

昔薫遇謂へり、「書を読むは当に三余を以てすべし。冬は歳の余なり。夜は日の余なり。陰雨は時の余なり」と。然れども歳にこれ冬あり、日にこれ夜あり、時にこれ雨あるは、皆天道の常にして、未だ以て、余と為すに足らざるなり。吾獄に入り来、亦三余を得て以て書を読めり。謂へらく、巳に義を忠孝に失えども、尚食を家国に仰ぐ。

 

君父の余恩に非ずや。巳に身陰房に幽せられ、尚照を戸隙より取る。是日月の余光に非ずや。性巳に狂悖(きょうはい)にして多く大典を犯し、質又尩弱(おうじゃく)にして数々篤疾に罹る。ここに一もあら、皆以て身を殺すに足れり。而るに方且に余恩を仰ぎ、余光を取る。是人生の余命に非ずやと。凡そ此の三余は皆薫遇にこれなき所にして、吾独り之れを得たれば、身を没す雖も足れり

抑々薫遇は或いは農となり、或いは官となり、徒其の三余を得るのみにて、尚以て天下後世に伝ふるに足れり況んやれは我が三余を得たるをや、寧んぞ量るけんや。

四月二日

 

解説(吉田松陰撰集より)

先に三余を書いたのは魏の薫遇である。

かれは、冬と夜と陰雨の三者を三余とした。しかしそれらは自然の常であって「余」ではないと松陰は考える。ところが今、獄中にある自分に与えられている、余恩.余光.余命の三余は、ただ自分だけが得ることの出来るかけがいのないものである。

それだけに、この三余に対しては感謝しても感謝しきれない思いである。松陰のこのような捉え方こそが、繋獄という逆境にありながらも志気を衰えさせることなく、常に前向きの姿勢を保持し得た要因をなすものである。

 

 

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