吉田無逸を送る序(丁巳幽室文稿)安政四年(一八五七)九月五日 二十八歳

 

吾が(むら)萩府(しゅうふ)の近郊に在り、人(もっと)も学を好むと称せらる。何如(いかん)せん、近来(すなわち)(いにしえ)()かざるを。吾れ帰囚(きしゅう)三年、(げん)に世と(しゃ)す、ここを以て邑中(ゆうちゅう)風教(ふうきょう)、一切これを度外(どがい)()けり。独り(さん)無生(むせい)なる者あり、(ひそ)かに来り吾れに従ひて遊ぶ。無逸(むいつ)は其の一なり。三無(さんむ)、余のかくの如きを惜しみ、余の在獄の知己(ちき)富永有隣を囚中(しゅうちゅう)より(だっ)し、以て邑事(ゆうじ)商議(しょうぎ)す。ここに於いてか、有隣は三無の(とも)に為すあるべきを知り、其の母を南都(なんと)(せい)するや、無逸を(たずさ)ふ。無逸(けだ)言論(げんろん)の外に得ることありしならん、帰るや先づ邑中(ゆうちゅう)(こう)なき者を(えら)び、三生(さんせい)を得たり、曰く(おと)、曰く(いち)、曰く(こう)。無逸示すに君父の大恩を以てし、以て之れを感動せしむ。三生深く自ら克責(こくせき)し、遂に以て学に向ふ。無逸乃ち孝経(こうきょう)孝始(こうし)孝終(こうしゅう)二句(にく)(ろく)して、以て之れを示す。三生皆泣き、指に針して血を取り、(どと)めて以て(しん)と為す。無逸も(また)慨然(がいぜん)として、血を留めて以て之を(しょう)し、()って(かい)して余に(まみ)えしめて(たく)を為す。余、文三(ぶんさん)(ぺん)を作りて以て三生に贈る。

(すで)にして秀実(しゅうじつ)、記録所の胥徒(しょと)(もっ)て、将に()に従ひて東行(とうこう)せんとし、(ぞう)(げん)()ふ。(おも)ふに、余、無逸と居りしこと一日に非ず、無為に語る所以のもの、(いずく)んぞ尽さざるあらんや。乃ち(しばら)く前の三文を録し、其の(よし)を言ひて贈と為す。然れども吾れ是れに因って感ずることあり。程明道(ていめいどう)(いわ)く「一命(いちめい)の士、(いやしく)も心を愛物(あいぶつ)の存せば、人に於いて必ず()す所あり」と。誠をこれ謂ふなり。()(せつ)や、吾れ()く之れを言へども、今は則ち無逸に()づるあり。無逸亦以(またもっ)て往くべし。胥徒(しょと)の事たる、繁雑(はんざつ)瑣屑(させつ)、日に以て俛焉(べんえん)たるも、(しか)も為すに足るものなし。間にして出でば、俗吏(ぞくり)儼然(げんぜん)として以て之れに面臨(めんりん)す。才気ある者、一たび(おちい)らんか、破れずんば則ち(くじ)けん。()だ無逸は則ち(まこと)を以て之れを()らんのみ。胥徒(しょと)(るい)たる、群然雑処(ぐんぜんざつしょ)し、其の営為(えいい)する所、酒色(しゅしょく)(あら)んば則ち財利(ざいり)にして、其の(げん)(いま)(かつ)()に及ばず。才気(さいき)ある者、一たび(とう)ぜんか、(いか)らずんば則ち(はば)まん、唯だ無逸は則ち誠を以て之れを動かさんのみ。聖人(せいじん)(みち)(けだ)し云へらく「君子、道を学はば(すなわ)ち人を愛し、小人、道を学べば則ち使い(やす)し」と。三生(さんせい)(われ)(すで)()れに任ず。有隣(ゆうりん)あり、二無(にむ)あり、吾が(むら)以て(うれ)ひなかるべし。()(こう)更に三生(さんせい)(まさ)る者を得て(きた)れ。(しか)りと(いえど)も、()(かつ)無逸(むいつ)(かた)りしこと、(ただ)にかくの如きのみには(あら)ず。江戸も(また)一大(いちだい)都会(とかい)なり、無逸(むいつ)(さら)に其の大なるものを()よ。(つい)に以て(ぞう)と為す。

 

 

 

解 説

安政四年八月、吉田栄太郎(無逸)が江戸に出役する際に贈った送叙である。そこには、栄太郎が指導していた音三郎(彼はこの時、十七歳、市之進や溝三郎と同じく吉田栄太郎に伴われて松下村塾に来た「無頼」の少年の一人である。松陰は音三郎が初めて来塾した時、彼の「容止温詳」な様子をみて「一見して与せり」として指導に乗り出している)、市之進、溝三郎の三少年は確かに引き受けたことを述べるとともに、江戸での胥徒と云う仕事に栄太郎がうまく適応するかどうかを憂慮している。胥徒の仕事は繁雑瑣屑、やってもやっても切が無く、休みの時の外出も上司が厳しく様子を聴くといった具合で、才気ある者は、ややもすると破れるか折けるか、しかねないものである。だから栄太郎の才気と頑質を知る松陰は心配で、誠を以て事に当ること、また折角経験する大都会である、「無逸更に其の大なるものを観よ」と励ましている。なお、八月二十八日付の松陰から栄太郎に宛てた書簡によると、「上張地一」を贐として贈って居り、また栄太郎を自分の志を継いで欲しい人間として期待していたことがわかる。

 

用語解説

吉田無逸を送る序 = 安政四年九月五日、吉田栄太郎(稔麿)が藩主に従って江戸へ発つ時の送別の言葉。安政四年八月二八日、吉田栄太郎宛の書簡。

吾が邑 = 松下村。松陰誕生の地。

萩府 = 萩藩(長州藩)の都府。

何如せん、近来乃ち古に如かざるを = どうしたものか。近頃は昔のように学問を好む気風が失われていることを。

巌に世と謝す = 厳重に世間との交わりを絶つ。

風教 = 道徳によって感化し教化すること。

度外に措けり = 考慮しなかった。

三無生 = 無咎(増野徳民)、無窮(松浦松洞)、無逸(吉田栄太郎)の三人。

富永有隣を囚中より脱し = 野山獄の同囚であった富永有隣は、松陰らの熱心な釈放運動により出獄を許された。知己は友人。

邑事を商議す = 松本村の事について相談する。

母を南都に省する = 有隣が故郷(現在の山口市陶郷上)に帰って母の安否を覗う。

行なき者 = 品行の良くない者。

三生 = 音三郎、市之進、溝三郎。

君父の大恩 = 主君や父から受けた大きな恩愛。

克責 = 自分の非行を責めること。

 

 

 

孝経の孝始孝終の二句 = 中国の経書の一つである『孝経』の「身体髪膚之を父母に受く。敢えて家毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行ひ名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは孝の終りなり」の二句。松陰の「丙辰日記」の表紙裏にもこの二句を記す。

指に針して血を取り、留めて以て信と為す = 血判のこと。誓いの印に指を傷つけて流れ出た血で押印すること。信はあかし。証明。

介して = なかだちをして。

文三篇 = 「音三郎に贈る」、「市之進に贈る」、「溝三郎の説」の三篇。

記録所の胥徒 = 吉田栄太郎は家計を助けるため、江戸の長州藩邸記録所の雑役夫に採用され、藩主に従い上京した。

贈言 = 送叙に同じ。人が旅立つ時、その人への期待や旅の意義、安全等を述べて、餞とする文章。送叙、贈序は同様。

寧んぞ尽さざるあらんや = どうして書き尽くさないでいられようか。

程明道 = 一○三二〜八五 北宋の儒者。名は程。弟の程頣と合せて二程子と言い、宋学の基礎を築いた。世に明道先生と称せられた。著書『二程全書』

一命の死、...人に於いて必ず済すところあり = 士以上の官吏は、もし物を愛することに心を留めたならば、人に対しても必ず利益をもたらすところがある。(『十八史略』巻七 宋)

繁雑瑣屑 = 物事が多く入り混じって煩わしく、また細かくくだくだしいさま。

俛焉 = 勤め励むさま。

間 = ゆとり。暇。

儼然として以て之れに面臨す = おごそかでいかめしい様子で見下す。

一たび陥らんか、破れずんば則ち折けん = 一旦、気が滅入るか、或は志が破れるか、そうでなければ、挫折するであろう。

群然雑処 = 大勢が入り混じって棲むこと。

酒色に非ずんば則ち財利にして = 酒や女性のことでなければ財産や利益のことで。

義 = 正しい道義。

一たび投ぜんか、怒らずんば則ち阻まん = 一旦諦めるか、或は怒るか、そうでなければ阻止するであろう。

「君子、道を学はば則ち人を愛し...使い易し」 = 民を治める君子が道を学べば自然に人民を愛するようになり、治められる人民が道を学べば自然に使い易い従順な人柄になる。(『論語』陽貨)

此の行 = 藩主の参勤に従い上京すること。

 

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