子遠(しえん)()  

(己未文稿野山日記)  安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳

 

(ねん)七日

家兄(かけい)臨まる。星巌(せいがん)の往復、幕府弁解等数密議(みつぎ)あり。又前田の説あり、諸友(しょゆう)絶交(ぜっこう)の事に係る。

夜、子遠(しえん)(ごく)に来り、船越(ふなこし)清蔵(せいぞう)村田(むらた)蔵六(ぞうろく)、萩に来るの事を談ず。

    ○

  子遠に()ぐ  正月(ねん)七夜(しちや)

桂生(かつらせい)吾れをして諸友(しょゆう)()たしむ、今(つつし)んで其の(げん)(ほう)ぜり。独り(なんじ)は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。汝其れ之れを察せよ。防長(ぼうちょう)絶えて(しん)尊攘(そんじょう)の人なし、吾れと(いえど)()尊攘(そんじょう)()ふを得ざるなり。(しか)らば則ち防長()(なんじ)一人(ひとり)のみ。(せつ)に自ら軽んずるなかれ。

汝、国を去りて(のち)は僧となるを(みょう)と為す。一には(けっ)()()あり、二には身を(かく)すの便(びん)あり、三には生活の計あり。且つ僧侶(そうりょ)にして(かえ)って天朝(てんちょう)(とうと)ぶことを知る者あり。禅学(ぜんがく)(また)心志(しんし)を定むるに()るものあり、是れ(また)一益(いちえき)なり。

兵は(せい)なるを(たっと)び、(おお)きを(たっと)ばず、(いわ)んや有志の士は(つの)りて求むべきものに(あら)ざるなり。(せつ)に記せよ、伏見(ふしみ)の事、万々敗蹶(はいけつ)背ば即ち嘯集(しょうしゅう)して賊となれ。頼政(よりまさ)の事は汝(もと)より自ら任ずる所なり。但し今日の時勢、宜しく佳賊(かぞく)となるべし、切に無頼(ぶらい)の賊となるべからず。

徳川は万々(ばんばん)扶持(ふじ)すべからず。徳川を扶持(ふじ)するは聖上(せいじょう)大仁(対人)なり。然れども仁(すで)に至らば(すなわ)ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義()くれば則ち仁()の中に在り。天祖(てんそ)(おしえ)へに曰く、「宝祚(ほうそ)(さか)えまさんこと、天壌(てんじょう)とともに(きわま)りなし」と。此の言、天胤(てんいん)世々信奉すれば則ち天下太平なり。草莽(そうもう)の臣切に(おも)へらく、聖上社稷(しゃしょく)(じゅん)じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝(てんちょう)(いずく)んぞ再興せざるの理あらんやと。

天朝の論、万一姑息(こそく)に出でば、神州中興の(ことわり)なし。吾れ(まあ)に中興の論を(たてまつ)らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日(ごじつ)を待つ。

(ぼく)()(くつ)せしむるの辞、吾が説を(はじめ)と為す、聴かずんば則ち平象山(へいしょうざん)の説()れを(たす)けん、()ほ聴かずんば則ち干戈(かんか)を用いて可なり。是れ亦仁(またじん)至り(いたり)義尽(ぎつ)くるの論なり。汝(しき)高く(たん)(だい)吾れの愛敬(あいけい)する所なり。恨むらくは才足らず、学(もっと)も足らず、怨讎(えんしゅう)の気過当(かとう)なり。是れ汝の病なり。必ず(そう)()(ざい)せんと欲するが如き、是れ過当(かとう)怨讎(えんしゅう)なり。然れども吾れの有隣(ゆうりん)を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽(れいらく)制度(せいど)興王(きょうおう)の規模にして、(おのずか)()の人あり。戎馬(じゅうば)甲兵(こうへい)は攘夷の籌略(ちゅうりゃく)にして、自ら其の人あり。()だ、真心(しんしん)実意(じつい)、自ら信じ自ら(やす)んず、道学の心法(こしんほう)真箇(まこと)に味あり。

吾れ(かっ)て王陽明の伝習録(でんしゅうろく)を読み、(すこぶ)る味あるを覚ゆ。(このご)()()焚書(ふんしょ)を得たるに、亦陽明派にして、言々(げんげん)心に当る。向に日孜(にっし)()るに洗心(せんしん)洞箚記(どうさっき)を以てす。大塩(おおしお)(また)陽明派(ようめいは)なり、取りて()るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明学のみを(おさ)むるに(あら)ず、但だ其の学の(しん)、往吾が真(しん)()ふのみ。

今のせかい、老屋(ろうおく)頽廈(たいか)の如し。是れ人々の見る所なり。吾れは(おも)へらく、大風(おおかぜ)一たび興って其れをして転覆(てんぷく)せしめ、然る後朽楹(きゅうえい)を代へ、敗椽(はいてん)を棄て、新材を(まじ)へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。諸友は其の老且つ(はい)なるものに()き、一楹一椽(いちえいってん)を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。是れ吾れを視て異端(いたん)怪物(かいぶつ)と為して之れを疎外(そがい)する所以(ゆえん)なり。汝に非ずんば(いずく)んぞ吾が心を知らん。

是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷()に其れ容易ならんや。(すべか)らく中大兄と鎌足と南淵(みなみふち)先生に往来し、路上に如何(いかん)の話を為せしかを思量(しりょう)すべし。(余書してここに至り覚えず(なみだ)下る。自ら其の由る所を知らざるなり)吾れ()愚物(ぐぶつ)なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚(とくこう)真実(しんじつ)を以て世々相伝ふ。ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚(ちゅうこう)の君子なり。之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。

旧友は前書に()ぼ之れを言へり。新知の暢夫(ちょうふ)識見(しきけん)気魄(きはく)、他人及ぶなし。但だ一暢夫を得て之れに(あらが)せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。然れども両暢夫(そう)(こう)すれば必ず(いち)暢夫の(たお)るる者あらん。()(また)(うれ)ふべきなり。此の(かん)の苦心、吾れ桂と一言(いちごん)せしに、桂も之れを首肯(しゅこう)せり。

無逸(むいつ)の識見は暢夫に彷彿(ほうふつ)す。但だ(いささか)の才あり。是れ大いにその(きはく)を害す。気魄一たび衰へば識見(しきけん)(くら)む、(たん)ずべし(たん)ずべし。(ふう)するに老屋(ろうおく)の説を以てせば、或いは一開発あらんか。抑々(そもそも)面従(めんじゅう)腹誹(ふくひ)せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒(ぜつりゅう)の事の如き、八十(やそ)子楫(しゆう)無咎(むきゅう)各々(おのおの)諌書(かんしょ)あり。その懇惻(こんそく)(すんすぁ)ち感ずべし、然れども吾れを(ののし)りて短慮(たんりょ)と為し無益(むえき)と為し、人の笑ひを(のこ)すと()すこと、(すなわ)士毅(しき)(いえど)も論じ得て(とお)らず。試みに之れをして無逸(むいつ)に語らしめば、無逸(むいつ)(すなわ)微笑(びしょう)せんのみ。(もと)より吾れの(りょ)(みじか)きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。嗚呼、鐘子(しょうし)()()(がた)しとは()()だ無逸か。実甫(じつほ)の才縦横(じゅうおう)無碍(むげ)なり。

暢夫(ちょうふ)陽頑(ようがん)無逸(むいつ)陰頑(いんがん)、皆人の()(ぎょ)を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ(せっ)(ちょく)(ひと)(せま)り、度量亦(せま)し。(しか)れども(おのずk)ら人に愛せらるるは潔烈(けつれつ)(そう)、之れを行るに美才(びさい)を以てし、且つ頑質(がんしつ)なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬(りょうやく)()ある、当に此の三人を()すべし。

八十(やそ)(ゆう)あり()あり、誠実人に()ぐ。所謂(いわゆる)布帛(ふはく)栗米(ぞくべい)なり、()くとして(もち)ひられざるはなし。其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子(にし)(また)八十(やそ)に及ばざること(とお)し。吾が友肥後(ひご)宮部鼎蔵(みやべていぞう)資性(しせい)八十(やそ)相近(あいちか)し。八十父母(ふぼ)(つか)へて(きわ)めて(こう)余未(よいま)()むるに国事(こくじ)を持ってすべからざるなり。子楫(しゆう)(えい)(まい)俊爽(しゅんそう)なり。然れども吾れ常に其の退転(たいてん)せんことを(おそ)る。退転(たいてん)(せい)一旦(いったん)(きざ)すことあらば、駟馬(しば)もこれに及ばず。吾れ平生最も愛する所は子楫(しゆう)無逸(むいつ)なり。無逸は吾れ其の才敏(さいびん)なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭(きえい)なるを愛す。皆その己れに似たるを愛す、皆吾が(あやま)ちなり。無逸の(がん)は吾れ(ある)いは(たいら)にすること(あた)はざらん。是れ其の(けい)すべき処なり。子楫は其の(がん)なし。然れども気自ら(たの)むべし。且つ子楫は母賢(ぼけん)弟友(ていゆう)なり、以て家を(たく)するに足る。()(よろ)しく()むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤(しんせき)の語なり、(なんじ)(せつ)()せよ。福原は外優柔(ゆうじゅう)に似て(しか)()を以て之れを足す。子楫の鋭気(えいき)愛すべきに如かず。然れども其の頑固(がんこ)自ら()とする(ところ)は子楫及ばざるなり。

無窮は才あり気あり。(いち)()男子(だんし)なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。無咎(むきゅう)は更に二無(にむ)に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節(たいせつ)に臨みて、(また)(いやしく)()きざるなり。

子徳(しとく)満家(まんか)俗論(ぞくろん)にして、恐らくは自ら()すること能はざらん。然れどもその正直(せいちょく)慷慨(こうがい)(いま)だ必ずしも摩滅(まめつ)せず、則ち亦時ありて発せんのみ。子大(しだい)は俗論中に在りて、(かえ)って能く自ら抜く、(あつ)く信ずと()ふべし。亦(いささか)頑骨(がんこつ)あり、愛すべし。日孜(にっし)は事に臨みて驚かず、少年中稀覯(きこう)の男子なり。吾れ屢々(しばしば)之れを()む。天野は鑒識(かんしき)あり、其の日孜(にっし)を取ること(すこぶ)る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。

天野は奇識(きしき)あり、人を()ること虫の如く、其の言語(げんご)往々(おうおう)()れをして(きょう)(ふく)せしむ。誠に李卓吾(りたくご)の如きを得て之れを()とせしめば、一世(いっせい)高人物(こうじんぶつ)たらんも、恐らくは(つい)に自ら()とし、其の非を知らずして死せん。吾が交友(わ こうゆう)(ちゅう)に於いて暢夫(ちょうふ)日孜(にっし)を除くの外は其の意に(あた)る者なし。(ああ)奇識(きしき)なるかな。

嗚呼(ああ)()(ざい)なきを(うれ)へず、其の材を(もち)ひざるを(うれ)ふ。大識見大(だいしきけんだい)才気(さいき)の人を待ちて、群材(ぐんざい)始めて之れが(よう)()す。吾が交友中、言ふに足る者なし。汝の知る所は仙吉(せんきち)直八(なおはち)松介(まつすけ)伝之輔(でんのすけ)小助(こすけ).太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢(ゆうかん)にして事に当る、仙吉の沈静(ちんせい)にして志ある、亦皆才(みなさい)と謂ふべし。然れども大識見(だいしきけん)大才(だいさい)の如き、恐らくは亦ここに在らず。天下は大なり、其れ往いて(あまね)く之れを求めよ

解 説

この書簡については、まず二のことを指摘しておきたい。その一は、書き出しの言葉についてである。それをみるといかにも(かつら)小五郎(こごろう)の言をもっともなこととしているかのようでありながら、必ずしもそうでなく桂が叔父(おじ)玉木(たまき)文之(ぶんの)(しん)を使って松陰と諸友との交信(こうしん)()めさせようとしたやり方に憤慨(ふんがい)している。その二は「吾れと(いえど)も復た尊攘を言ふを得ざるなり」とあって、松陰自身も尊攘(そんじょう)を口にする資格がないと言っているが、この頃尊攘についての自分の考え方なり手段(しゅだん)なりに何か誤りがあるのではないかと反省させられるところがあったためであろうか。実際にはいよいよ尊攘(そんじょう)(ねん)をかき立てて、その実現をその杉蔵に期待しているのがこの書簡(しょかん)である。

尊攘実現のためには、今は僧侶(そうりょ)になって機会を待つべきだと示唆(しさ)するとともに、共に決起(けっき)して欲しい村塾出身者について、その人物(じんぶつ)特性(とくせい)を杉蔵に知らせ、立ち上がる時の用に(きょう)している

用語解説

小遠 = 入江杉蔵の字。

家兄 = 兄、梅太郎。

臨まる = おいでになる。

星巌 = 梁川星巌 一七八九〜一八五八 江戸末期の漢詩人。尊王論者。名は卯.孟諱、通称新十郎。江戸で「玉池吟社」を作り名声が上った。のち、京都に移り、梅田雲濱.横井小楠と交り国事に奔走。安政五年没。七十歳。

前田 =前田孫右衛門 一八一八〜六五 名は利済、字は致遠。孫右衛門は通称。当職手元役用談役を歴任。元治元年、禁門の変、四国連合艦隊の下関砲撃の責任を問われ、俗論派により野山獄に投じられ斬首。四八歳。

船越清蔵 = 一八○五〜六二 長門清末(下関)の人。名は守愚、豊浦山樵と号す。佐藤一斎、帆足万里、広瀬淡窓に学ぶ。陽明学者。近江大津で開塾。皇室の中興を志す。文久二年没。五八歳。

村田蔵六 = 一八二四〜六九 大村益次郎。名は永敏。今の山口県鋳銭司出身。医者.兵学者。宇和島藩に仕え、蕃所取調所教授手伝、講武所教授を歴任。のち長州藩に仕えて兵制改革を指導した。維新政府の兵部大輔として近代兵制の樹立に尽くしたが、明治二年反対派士族に襲われ負傷死亡。四六歳。

桂生 = 桂小五郎(木戸孝允)一八三三〜七七 松陰の兵学門下生。長州藩士。当時剣客斎藤新九郎に従い、江戸に遊学。維新三傑の一人。明治十年没。四五歳。

汝 = お前。

防長 = 周防と長門。今の山口県。

尊攘 = 皇室を尊び、外国人を払い除く。

妙 = 妙案。優れた、良い考え。

天朝 = 朝廷の尊称。

禅学 = 座禅と公案と問答により、仏心を体得する修行。

精なる = 精鋭。選り抜きの優れたもの。

伏見の事 = 藩主伏見要駕策。安政六年三月、松下村塾生より選ばれた「十死生」が、参勤途中の長州藩主毛利敬親を京都伏見で迎え、大原重徳等尊攘派の公卿に引き合わせて上洛し、勅許を得て幕政の過失を正そうとする計画。松陰の指示により野村和作が京都に向かったが失敗した。

万々敗蹶せば = もしも、敗北したならば。

嘯集して = 人を呼び集めて。

頼政の事 = 源頼政。一一○四〜八○ 平安末期の武将。源氏でありながら、平治の乱に源義朝につかず宮中に出仕。治承四年、以仁王を奉じ平氏打倒の兵を挙げたが敗れて自刃した。

佳賊 = 優れた反逆者。

無頼の賊 = 信頼出来ない、ならず者の反逆者。

万々扶持すべからず = 決して助け支えるべきではない。

聖上の大仁 = すぐれた天子の偉大なる人徳。

仁既に至らば...仁其の中に在り = 天子の仁徳(慈しみ)が万人に達したならば、これを受けて人々は臣下として守るべき義(真心)を尽くさねばならない。真心を尽くすならば、慈しみは其の中に含まれている。(『礼記』「特効牲」)

天祖 = 天照大神

宝祚 = 天皇の位。皇位。

天壌 = 天と地。

天胤 = 天皇の子孫。

草莽の臣 = 仕官していない臣下。松陰を指す。

社稷に殉じたまひ = 国家のために命懸けで尽くされ。

寧んぞ再興せざるの理あらんや = どうして再興しない道理があろうか。

姑息 = 一時しのぎ。

神州中興 = 神国日本の再興。

墨夷を屈せしむるの辞 = 『戌午幽室文稿』の「対策一道」にある、条約拒否の一文を指すと思われる。

平象山 = 佐久間象山。 一八一一〜六四 名は啓、字は子明。江戸末期の洋学者で兵学者。信濃松代藩士。江戸神田に象山学院を開く。勝海舟.坂本龍馬.吉田松陰等の師。松陰の米艦搭乗に連座、江戸獄に投じられ、のち松代に蟄居九年。開国論を唱え、幕府にも進言した。元治元年、攘夷派により刺殺された。五四歳。

干戈 = 武器。武力。

識高く胆大 = 見識に優れ、度量が大きい。

怨讐の気過当なり = 仇を怨む気持ちが度合いを越している。

病 = 弱点。

荘四 = 田原荘四郎。長州藩足軽。大原三位西下策を藩邸に密告。また、伏見要駕策のため、脱藩した野村和作を追捕しに赴く。

有隣 = 富永有隣。一八二一〜一九○○。名は悳彦、有隣は字。長州藩士。明倫館に学び、山県大華に師事し、学才は抜群。狷介な性格で、嘉永五年、親戚.同僚に陥れられ萩沖の見島に流刑、翌年野山獄に入る。松陰の講義を聴き獄風改善に協力。明治三十三年病没。八十歳。

 

礼楽制度は...規模にして = 社会秩序を正しくする「礼」や心を和らげる「楽」を基本にした政治制度は、勢い盛んな国の王の手本であり。

戎馬甲兵は攘夷の籌略にして = 軍馬や兵士は外国人を追い払うための計略であり。

真心実意、...自ら靖んず = 真心や誠実だけが自信や安心をもたらす。

道学の心法 = 北宋の程.程頤、南宋の朱熹が唱えた性命義理の学。

王陽明 = 一四七二〜一五二八。名は守仁、陽明は号。明の哲学者、政治家。心則理と言う観点から知行合一、致良知を主張した。陽明学の祖。『伝習録』を著す。

日孜 = 品川弥二郎の名。

洗心洞箚記 = 大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の著。平八郎(号は中斎)は大坂町奉行与力など歴任。陽明学の知行合一を信奉し、私塾洗心洞を開いた。天保の飢饉の時、窮民救済を図って挙兵したが敗れて自殺。

老屋頽廈 = 古びて崩れ落ちた家屋。

吾れは謂へらく = 私の考えでは。

朽楹を代えて敗椽を棄て...美観とならん = 朽ちた太い柱や垂木を皆棄て、新しい材料で再建するならば立派になるだろう。

其の老且つ頽なるものに就き...支へんと欲す = 老朽した家屋にこだわり、朽ちた柱や垂木だけを取替え、数ヶ月凌げばよしとする。

中大兄 = 中大兄皇子。六二六〜六七一 のち天智天皇。中臣鎌足と謀り蘇我氏を滅ぼし、孝徳.斉明天皇の皇太子として大化改新を推進。のち、都を大津に移して即位し近江令を制定した。

鎌足 = 中臣鎌足。六一四〜六六九。古代の中央豪族。中大兄皇子とともに蘇我氏を倒し大化改新に参画、律令体制の基礎を築いた。

南淵先生  = 南淵請安。 七世紀の学問僧。遣隋使小野妹子に従って入隋、六四○年帰国。中大兄皇子.中臣鎌足に儒学を講じた。

吾が家の流風学術 = 吉田家が世職とする山鹿流兵学。

軒輊する = 優劣をつける。

前書 = 「子遠に与ふ」(安政六年一月十七日)

暢夫 = 高杉晋作の字。名は春風。一八三九〜六七。松下村塾生の一人。久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称せられる。松陰の死後、奇兵隊を組織して討幕の気運を促進したが病没。

識見気魄 = 正しい判断力と相手に立ち向かう強い精神力。

首肯せり = うなずく。肯定する。

 

 

 

無逸 = 吉田栄太郎の字。一八四一〜六四。名は秀実。字は無逸.稔麿、栄太郎は通称。

長州藩足軽。松下村塾生。久坂玄瑞高杉晋作入江杉蔵らとともに松下村塾の四天王と証せられた。松陰の野山再獄に罪名論を糺し、家囚となる。元治元年六月、京都池田屋にて新撰組に襲われ重傷を負い、自刃。二四歳。

彷彿す = よく似ている。

諷する = 他にかこつけて遠まわしに諭す。

一開発あらんか = 新たな展開があろうか。

面従腹誹 = 人の前ではへつらい、内心では非難すること。

絶粒のこと = 松陰が時事に痛憤して絶食したこと。

八十.子楫.無咎 = 佐世八十郎(前原一誠).岡部富太郎.増野徳民。

諫書 = 過ちを諌める手紙。

懇惻 = 心から心配すること。

人の笑ひを胎す = 人の笑いものになる。

士毅 = 小田村伊之助の字。

論じ得て透ならず = 論評とはなっているが、主旨が一貫していない。

鐘子期 = 春秋時代、楚の人。斉の演奏家、伯牙の琴をよく理解した。子期の死後、伯牙は弦を切断し二度と演奏しなかった。松陰は自分のよき理解者として、吉田栄太郎を子期に比す。

実甫 = 久坂玄瑞の字。

縦横無碍 = 自由自在で、妨げになるものがない。

駕御 = 指図。駆使。

切直 = 心を込めてひたすらに。

度量 = 人の言動を受け入れる心の広さ。

潔烈の操 = いさぎよく、強い節操。

美才 = すぐれた才能。

頑質 = 妥協せず、主張や意地を押し通す性質。

布帛栗米 = もめん.絹.米.粟。 生活必需品。

宮部鼎蔵 = 一八二○〜六四。肥後(熊本)の人。名は増美、号は田城、鼎蔵は通称。山鹿流兵学を学ぶ。熊本藩軍学師範。嘉永三年、松陰は九州旅行の途次、鼎蔵を訪ね、翌年江戸で再会、東北旅行にも同伴した。安政元年、米艦搭乗前後に松陰のため奔走。元治元年池田屋事件で自刃。四五歳。

資性 = 生まれつきの性質。

余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり = 私は八十郎に対して国事に奔走するよう強く求めることは出来ない。

子楫 = 岡部富太郎の字。

鋭邁 = 才知が鋭く、どこまでも進展するさま。

俊爽 = 才能や品性が抜きん出ていること。

退転 = 努力を怠り、元の状態に転落すること。

駟馬 = 四頭だての馬車。

無逸 = 吉田栄太郎の字。

気自ら恃むべし = 気力の面で自分を頼みにしている。

友なり = 仲がよい。

心赤の語 = 真心からでた言葉。

福原 = 福原又四郎。 一八四一〜没年不詳。 名は利実、字は去華、又四郎は通称。長州藩士。松陰門下生。来原良蔵の甥。老中間部要撃策に加わる。松陰再投獄の時、罪名を糺して家囚となる。文久元年、「一灯銭申合」に参加。

無窮 = 松浦松洞。一八三七〜六二。 名は温古、号は松洞。無窮は字。通称亀太郎。萩の魚商の子。松下村塾生。四条派の絵を学ぶ。安政六年、東送直前の松陰の肖像を画く。公武合体論に痛憤し、自殺。二六歳。

無咎 = 増野徳民の字。

二無 = 無逸(吉田栄太郎).無窮(松浦松洞)

大節 = 国家の存亡、個人の生死にかかわる、重大な事件。

苟も生きざるなり = 命懸けで臨む決意である。

子徳 = 有吉熊次郎。一八四二〜六四。 名は良明、子徳は字。熊次郎は通称。長州藩士。松下村塾生。安政五年間部老中要撃策に加わるも果さず。元治元年、禁門の変で自刃。

子大 = 作間忠三郎。 一八四三〜六四。松下村塾生。名は昌昭、子大は字、号は刀山。長州藩士。後の寺島忠三郎。山口県熊毛町出身。松陰の野山再獄の罪名を糺して家囚となる。松陰刑死後明倫館に入る。文久元年末の「一灯銭申合」に加わる。元治元年禁門の変で自刃。二十二歳。

頑骨 = 主張や意地を頑固に押し通そうとする性質。

日孜 = 品川弥二郎。一八四三〜一九○○。日孜は字、号は思父。長州藩足軽。のち士分。安政五年、老中間部要撃策に加わる。元治元年、禁門の変に八幡隊隊長として上洛したが敗北。維新後、ドイツ公使.枢密顧問官.内務大臣等歴任。明治三三年病没。五八歳。

稀覯 = まれに見る。立派な。

天野 = 天野清三郎(渡辺蒿蔵)一八四三〜一九三九。名は寛、通称は清三郎。のちの渡辺蒿蔵。松陰門下生。高杉晋作の奇兵隊創設に尽力。慶應三年イギリスに留学して造船術を研究。明治七年帰国し工部省に入る。のち長崎造船所を創設。昭和一四年没。九七歳。鑒識 = 人の善悪、品格等を見抜く力。

奇識 = 人並み優れた見識。

 

李卓吾 = 一五二七〜一六○二。名は贄、卓吾は字。明末の思想家。官吏を辞し出家。学風は陽明学の影響を受け禅的色彩をおびる。『焚書』等の著作のため投獄され、自殺。

高人物 = 立派な人物。

交遊 = 交友。

暢夫 = 高杉晋作の字。

世、材なきを憂はず...患ふ = 今の世に人材がいないことを悲しむのではない。人材が採用されないことを嘆くのだ。

大識見大才気の人を待ちて = 非常に優れた見識や才能の持ち主が現れはじめて。

仙吉 = 岡仙吉。生没年不詳。松下村塾生。入江杉蔵と親交。慶應年間奇兵隊に所属。

直八 = 時山直八。一八三八〜六八。名は養直、号は白水山人.海月坊。長州藩士。明倫館に入学、松陰の兵学門下。元治元年、奇兵隊参謀として下関の連合艦隊襲撃にに参加。明治元年、北越に赴き戦死。三十一歳。

松介 = 杉山松介。一八三八〜六四。 名は律儀、号は寒翠。長州藩足軽のち士分。松下村塾生、老中間部要撃策に加わる。元治元年、池田屋事件で重傷を負い死去。二七歳。

伝之輔 = 伊藤伝之輔 生没年不詳。長州藩中間。安政五年、大原三位下向策にかかわり幽閉、投獄される。慶應初年、奇兵隊に入る。

小助 = 山県有朋。一八三八〜一九二二。長州藩足軽のち士分。のち有朋と改名。号は素狂.椿山荘主人等。松下村塾生。奇兵隊の軍監。維新後、陸軍卿.枢密院議長.法相.陸相を経、明治二十二年、内閣総理大臣を歴任。大正一一年病没。八五歳。

太郎 = 原田太郎。生没年不詳。名は豊。松陰の兵学門下生。

遍く之れを求めよ = あらゆる所に赴き、大見識大才気の人材を求めよ。

 

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