子遠に語ぐ
(己未文稿野山日記) 安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳
念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に来り、船越清蔵.村田蔵六、萩に来るの事を談ず。
○
子遠に語ぐ 正月念七夜
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。汝其れ之れを察せよ。防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。然らば則ち防長唯だ汝一人のみ。切に自ら軽んずるなかれ。
汝、国を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隠すの便あり、三には生活の計あり。且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅学も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
兵は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶背ば即ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。但し今日の時勢、宜しく佳賊となるべし、切に無頼の賊となるべからず。
徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。然れども仁既に至らば則ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。
天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聴かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聴かずんば則ち干戈を用いて可なり。是れ亦仁至り義尽くるの論なり。汝識高く胆大、吾れの愛敬する所なり。恨むらくは才足らず、学尤も足らず、怨讎の気過当なり。是れ汝の病なり。必ず荘四を罪せんと欲するが如き、是れ過当の怨讎なり。然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。戎馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ、真心実意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。
吾れ曾て王陽明の伝習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。向に日孜に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の学の真、往々吾が真と会ふのみ。
今のせかい、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ、敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。
是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしかを思量すべし。(余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり)吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚真実を以て世々相伝ふ。ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。
旧友は前書に略ぼ之れを言へり。新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。然れども両暢夫相抗すれば必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れ桂と一言せしに、桂も之れを首肯せり。
無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些の才あり。是れ大いにその気魄を害す。気魄一たび衰へば識見亦昏む、歎ずべし歎ずべし。諷するに老屋の説を以てせば、或いは一開発あらんか。抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒の事の如き、八十.子楫.無咎、各々諌書あり。その懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの慮短きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。嗚呼、鐘子期遇ひ難しとは其れ唯だ無逸か。実甫の才は縦横無碍なり。
暢夫は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。然れども自ら人に愛せらるるは潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当に此の三人を推すべし。
八十は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。所謂、布帛栗米なり、適くとして用ひられざるはなし。其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を持ってすべからざるなり。子楫は鋭邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌すことあらば、駟馬もこれに及ばず。吾れ平生最も愛する所は子楫.無逸なり。無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭なるを愛す。皆その己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或いは平にすること能はざらん。是れ其の敬すべき処なり。子楫は其の頑なし。然れども気自ら恃むべし。且つ子楫は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。福原は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子楫の鋭気愛すべきに如かず。然れども其の頑固自ら是とする処は子楫及ばざるなり。
無窮は才あり気あり。一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節に臨みて、亦苟も生きざるなり。
子徳は満家俗論にして、恐らくは自ら持すること能はざらん。然れどもその正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ。子大は俗論中に在りて、顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし。日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。誠に李卓吾の如きを得て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。吾が交友中に於いて暢夫.日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。
嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。吾が交友中、言ふに足る者なし。汝の知る所は仙吉.直八.松介.伝之輔.小助.太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。然れども大識見大才の如き、恐らくは亦ここに在らず。天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ
解 説
この書簡については、まず二のことを指摘しておきたい。その一は、書き出しの言葉についてである。それをみるといかにも桂小五郎の言をもっともなこととしているかのようでありながら、必ずしもそうでなく桂が叔父玉木文之進を使って松陰と諸友との交信を止めさせようとしたやり方に憤慨している。その二は「吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり」とあって、松陰自身も尊攘を口にする資格がないと言っているが、この頃尊攘についての自分の考え方なり手段なりに何か誤りがあるのではないかと反省させられるところがあったためであろうか。実際にはいよいよ尊攘の念をかき立てて、その実現をその杉蔵に期待しているのがこの書簡である。
尊攘実現のためには、今は僧侶になって機会を待つべきだと示唆するとともに、共に決起して欲しい村塾出身者について、その人物特性を杉蔵に知らせ、立ち上がる時の用に供している。
用語解説
小遠 = 入江杉蔵の字。
家兄 = 兄、梅太郎。
臨まる = おいでになる。
星巌 = 梁川星巌 一七八九〜一八五八 江戸末期の漢詩人。尊王論者。名は卯.孟諱、通称新十郎。江戸で「玉池吟社」を作り名声が上った。のち、京都に移り、梅田雲濱.横井小楠と交り国事に奔走。安政五年没。七十歳。
前田 =前田孫右衛門 一八一八〜六五 名は利済、字は致遠。孫右衛門は通称。当職手元役用談役を歴任。元治元年、禁門の変、四国連合艦隊の下関砲撃の責任を問われ、俗論派により野山獄に投じられ斬首。四八歳。
船越清蔵 = 一八○五〜六二 長門清末(下関)の人。名は守愚、豊浦山樵と号す。佐藤一斎、帆足万里、広瀬淡窓に学ぶ。陽明学者。近江大津で開塾。皇室の中興を志す。文久二年没。五八歳。
村田蔵六 = 一八二四〜六九 大村益次郎。名は永敏。今の山口県鋳銭司出身。医者.兵学者。宇和島藩に仕え、蕃所取調所教授手伝、講武所教授を歴任。のち長州藩に仕えて兵制改革を指導した。維新政府の兵部大輔として近代兵制の樹立に尽くしたが、明治二年反対派士族に襲われ負傷死亡。四六歳。
桂生 = 桂小五郎(木戸孝允)一八三三〜七七 松陰の兵学門下生。長州藩士。当時剣客斎藤新九郎に従い、江戸に遊学。維新三傑の一人。明治十年没。四五歳。
汝 = お前。
防長 = 周防と長門。今の山口県。
尊攘 = 皇室を尊び、外国人を払い除く。
妙 = 妙案。優れた、良い考え。
天朝 = 朝廷の尊称。
禅学 = 座禅と公案と問答により、仏心を体得する修行。
精なる = 精鋭。選り抜きの優れたもの。
伏見の事 = 藩主伏見要駕策。安政六年三月、松下村塾生より選ばれた「十死生」が、参勤途中の長州藩主毛利敬親を京都伏見で迎え、大原重徳等尊攘派の公卿に引き合わせて上洛し、勅許を得て幕政の過失を正そうとする計画。松陰の指示により野村和作が京都に向かったが失敗した。
万々敗蹶せば = もしも、敗北したならば。
嘯集して = 人を呼び集めて。
頼政の事 = 源頼政。一一○四〜八○ 平安末期の武将。源氏でありながら、平治の乱に源義朝につかず宮中に出仕。治承四年、以仁王を奉じ平氏打倒の兵を挙げたが敗れて自刃した。
佳賊 = 優れた反逆者。
無頼の賊 = 信頼出来ない、ならず者の反逆者。
万々扶持すべからず = 決して助け支えるべきではない。
聖上の大仁 = すぐれた天子の偉大なる人徳。
仁既に至らば...仁其の中に在り = 天子の仁徳(慈しみ)が万人に達したならば、これを受けて人々は臣下として守るべき義(真心)を尽くさねばならない。真心を尽くすならば、慈しみは其の中に含まれている。(『礼記』「特効牲」)
天祖 = 天照大神
宝祚 = 天皇の位。皇位。
天壌 = 天と地。
天胤 = 天皇の子孫。
草莽の臣 = 仕官していない臣下。松陰を指す。
社稷に殉じたまひ = 国家のために命懸けで尽くされ。
寧んぞ再興せざるの理あらんや = どうして再興しない道理があろうか。
姑息 = 一時しのぎ。
神州中興 = 神国日本の再興。
墨夷を屈せしむるの辞 = 『戌午幽室文稿』の「対策一道」にある、条約拒否の一文を指すと思われる。
平象山 = 佐久間象山。 一八一一〜六四 名は啓、字は子明。江戸末期の洋学者で兵学者。信濃松代藩士。江戸神田に象山学院を開く。勝海舟.坂本龍馬.吉田松陰等の師。松陰の米艦搭乗に連座、江戸獄に投じられ、のち松代に蟄居九年。開国論を唱え、幕府にも進言した。元治元年、攘夷派により刺殺された。五四歳。
干戈 = 武器。武力。
識高く胆大 = 見識に優れ、度量が大きい。
怨讐の気過当なり = 仇を怨む気持ちが度合いを越している。
病 = 弱点。
荘四 = 田原荘四郎。長州藩足軽。大原三位西下策を藩邸に密告。また、伏見要駕策のため、脱藩した野村和作を追捕しに赴く。
有隣 = 富永有隣。一八二一〜一九○○。名は悳彦、有隣は字。長州藩士。明倫館に学び、山県大華に師事し、学才は抜群。狷介な性格で、嘉永五年、親戚.同僚に陥れられ萩沖の見島に流刑、翌年野山獄に入る。松陰の講義を聴き獄風改善に協力。明治三十三年病没。八十歳。
礼楽制度は...規模にして = 社会秩序を正しくする「礼」や心を和らげる「楽」を基本にした政治制度は、勢い盛んな国の王の手本であり。
戎馬甲兵は攘夷の籌略にして = 軍馬や兵士は外国人を追い払うための計略であり。
真心実意、...自ら靖んず = 真心や誠実だけが自信や安心をもたらす。
道学の心法 = 北宋の程.程頤、南宋の朱熹が唱えた性命義理の学。
王陽明 = 一四七二〜一五二八。名は守仁、陽明は号。明の哲学者、政治家。心則理と言う観点から知行合一、致良知を主張した。陽明学の祖。『伝習録』を著す。
日孜 = 品川弥二郎の名。
洗心洞箚記 = 大塩平八郎(一七九三〜一八三七)の著。平八郎(号は中斎)は大坂町奉行与力など歴任。陽明学の知行合一を信奉し、私塾洗心洞を開いた。天保の飢饉の時、窮民救済を図って挙兵したが敗れて自殺。
老屋頽廈 = 古びて崩れ落ちた家屋。
吾れは謂へらく = 私の考えでは。
朽楹を代えて敗椽を棄て...美観とならん = 朽ちた太い柱や垂木を皆棄て、新しい材料で再建するならば立派になるだろう。
其の老且つ頽なるものに就き...支へんと欲す = 老朽した家屋にこだわり、朽ちた柱や垂木だけを取替え、数ヶ月凌げばよしとする。
中大兄 = 中大兄皇子。六二六〜六七一 のち天智天皇。中臣鎌足と謀り蘇我氏を滅ぼし、孝徳.斉明天皇の皇太子として大化改新を推進。のち、都を大津に移して即位し近江令を制定した。
鎌足 = 中臣鎌足。六一四〜六六九。古代の中央豪族。中大兄皇子とともに蘇我氏を倒し大化改新に参画、律令体制の基礎を築いた。
南淵先生 = 南淵請安。 七世紀の学問僧。遣隋使小野妹子に従って入隋、六四○年帰国。中大兄皇子.中臣鎌足に儒学を講じた。
吾が家の流風学術 = 吉田家が世職とする山鹿流兵学。
軒輊する = 優劣をつける。
前書 = 「子遠に与ふ」(安政六年一月十七日)
暢夫 = 高杉晋作の字。名は春風。一八三九〜六七。松下村塾生の一人。久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称せられる。松陰の死後、奇兵隊を組織して討幕の気運を促進したが病没。
識見気魄 = 正しい判断力と相手に立ち向かう強い精神力。
首肯せり = うなずく。肯定する。
無逸 = 吉田栄太郎の字。一八四一〜六四。名は秀実。字は無逸.稔麿、栄太郎は通称。
長州藩足軽。松下村塾生。久坂玄瑞高杉晋作入江杉蔵らとともに松下村塾の四天王と証せられた。松陰の野山再獄に罪名論を糺し、家囚となる。元治元年六月、京都池田屋にて新撰組に襲われ重傷を負い、自刃。二四歳。
彷彿す = よく似ている。
諷する = 他にかこつけて遠まわしに諭す。
一開発あらんか = 新たな展開があろうか。
面従腹誹 = 人の前ではへつらい、内心では非難すること。
絶粒のこと = 松陰が時事に痛憤して絶食したこと。
八十.子楫.無咎 = 佐世八十郎(前原一誠).岡部富太郎.増野徳民。
諫書 = 過ちを諌める手紙。
懇惻 = 心から心配すること。
人の笑ひを胎す = 人の笑いものになる。
士毅 = 小田村伊之助の字。
論じ得て透ならず = 論評とはなっているが、主旨が一貫していない。
鐘子期 = 春秋時代、楚の人。斉の演奏家、伯牙の琴をよく理解した。子期の死後、伯牙は弦を切断し二度と演奏しなかった。松陰は自分のよき理解者として、吉田栄太郎を子期に比す。
実甫 = 久坂玄瑞の字。
縦横無碍 = 自由自在で、妨げになるものがない。
駕御 = 指図。駆使。
切直 = 心を込めてひたすらに。
度量 = 人の言動を受け入れる心の広さ。
潔烈の操 = いさぎよく、強い節操。
美才 = すぐれた才能。
頑質 = 妥協せず、主張や意地を押し通す性質。
布帛栗米 = もめん.絹.米.粟。 生活必需品。
宮部鼎蔵 = 一八二○〜六四。肥後(熊本)の人。名は増美、号は田城、鼎蔵は通称。山鹿流兵学を学ぶ。熊本藩軍学師範。嘉永三年、松陰は九州旅行の途次、鼎蔵を訪ね、翌年江戸で再会、東北旅行にも同伴した。安政元年、米艦搭乗前後に松陰のため奔走。元治元年池田屋事件で自刃。四五歳。
資性 = 生まれつきの性質。
余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり = 私は八十郎に対して国事に奔走するよう強く求めることは出来ない。
子楫 = 岡部富太郎の字。
鋭邁 = 才知が鋭く、どこまでも進展するさま。
俊爽 = 才能や品性が抜きん出ていること。
退転 = 努力を怠り、元の状態に転落すること。
駟馬 = 四頭だての馬車。
無逸 = 吉田栄太郎の字。
気自ら恃むべし = 気力の面で自分を頼みにしている。
友なり = 仲がよい。
心赤の語 = 真心からでた言葉。
福原 = 福原又四郎。 一八四一〜没年不詳。 名は利実、字は去華、又四郎は通称。長州藩士。松陰門下生。来原良蔵の甥。老中間部要撃策に加わる。松陰再投獄の時、罪名を糺して家囚となる。文久元年、「一灯銭申合」に参加。
無窮 = 松浦松洞。一八三七〜六二。 名は温古、号は松洞。無窮は字。通称亀太郎。萩の魚商の子。松下村塾生。四条派の絵を学ぶ。安政六年、東送直前の松陰の肖像を画く。公武合体論に痛憤し、自殺。二六歳。
無咎 = 増野徳民の字。
二無 = 無逸(吉田栄太郎).無窮(松浦松洞)
大節 = 国家の存亡、個人の生死にかかわる、重大な事件。
苟も生きざるなり = 命懸けで臨む決意である。
子徳 = 有吉熊次郎。一八四二〜六四。 名は良明、子徳は字。熊次郎は通称。長州藩士。松下村塾生。安政五年間部老中要撃策に加わるも果さず。元治元年、禁門の変で自刃。
子大 = 作間忠三郎。 一八四三〜六四。松下村塾生。名は昌昭、子大は字、号は刀山。長州藩士。後の寺島忠三郎。山口県熊毛町出身。松陰の野山再獄の罪名を糺して家囚となる。松陰刑死後明倫館に入る。文久元年末の「一灯銭申合」に加わる。元治元年禁門の変で自刃。二十二歳。
頑骨 = 主張や意地を頑固に押し通そうとする性質。
日孜 = 品川弥二郎。一八四三〜一九○○。日孜は字、号は思父。長州藩足軽。のち士分。安政五年、老中間部要撃策に加わる。元治元年、禁門の変に八幡隊隊長として上洛したが敗北。維新後、ドイツ公使.枢密顧問官.内務大臣等歴任。明治三三年病没。五八歳。
稀覯 = まれに見る。立派な。
天野 = 天野清三郎(渡辺蒿蔵)一八四三〜一九三九。名は寛、通称は清三郎。のちの渡辺蒿蔵。松陰門下生。高杉晋作の奇兵隊創設に尽力。慶應三年イギリスに留学して造船術を研究。明治七年帰国し工部省に入る。のち長崎造船所を創設。昭和一四年没。九七歳。鑒識 = 人の善悪、品格等を見抜く力。
奇識 = 人並み優れた見識。
李卓吾 = 一五二七〜一六○二。名は贄、卓吾は字。明末の思想家。官吏を辞し出家。学風は陽明学の影響を受け禅的色彩をおびる。『焚書』等の著作のため投獄され、自殺。
高人物 = 立派な人物。
交遊 = 交友。
暢夫 = 高杉晋作の字。
世、材なきを憂はず...患ふ = 今の世に人材がいないことを悲しむのではない。人材が採用されないことを嘆くのだ。
大識見大才気の人を待ちて = 非常に優れた見識や才能の持ち主が現れはじめて。
仙吉 = 岡仙吉。生没年不詳。松下村塾生。入江杉蔵と親交。慶應年間奇兵隊に所属。
直八 = 時山直八。一八三八〜六八。名は養直、号は白水山人.海月坊。長州藩士。明倫館に入学、松陰の兵学門下。元治元年、奇兵隊参謀として下関の連合艦隊襲撃にに参加。明治元年、北越に赴き戦死。三十一歳。
松介 = 杉山松介。一八三八〜六四。 名は律儀、号は寒翠。長州藩足軽のち士分。松下村塾生、老中間部要撃策に加わる。元治元年、池田屋事件で重傷を負い死去。二七歳。
伝之輔 = 伊藤伝之輔 生没年不詳。長州藩中間。安政五年、大原三位下向策にかかわり幽閉、投獄される。慶應初年、奇兵隊に入る。
小助 = 山県有朋。一八三八〜一九二二。長州藩足軽のち士分。のち有朋と改名。号は素狂.椿山荘主人等。松下村塾生。奇兵隊の軍監。維新後、陸軍卿.枢密院議長.法相.陸相を経、明治二十二年、内閣総理大臣を歴任。大正一一年病没。八五歳。
太郎 = 原田太郎。生没年不詳。名は豊。松陰の兵学門下生。
遍く之れを求めよ = あらゆる所に赴き、大見識大才気の人材を求めよ。