(しち) (せい) (せつ)    

(丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)二十七歳

 

天の茫々(ぼうぼう)たる、一理(いちり)ありて(そん)し、父子祖孫(そそん)綿々(めんめん)たる、一気ありて(つづ)く。人の()まるるや、()()()りて以て心と為し、斯の気を()けて以て(たい)と為す。体は(わたし)なり、心は(こう)なり。私を(えき)して公に(したが)ふ者を大人(だいじん)と為し、公を(えき)して(わたし)(したが)ふ者を小人(しょうじん)と為す。故に小人は体滅(たいめっ)気竭(きつ)くるときは、則ち腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)して()(おさ)むべからず。

君子は心、理と通ず、(たい)滅し(めっ)気竭(きつ)くるとも、(しか)も理は独り古今(ここん)(わた)天穣(てんじょう)(きわ)め、未だ(かつ)(しばら)くも()まざるなり。

余聞く、「(ぞう)(しょう)三位(さんみ)(なん)(こう)の死するや、其の(おとうと)正季(まさすえ)(かえり)みて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊(こくぞく)(ほろぼ)さん』と。(こう)欣然(きんぜん)として曰く、『()づ吾が心を()たり』とて(ぐう)()して死せり」と。(ああ)、是れ深く理気(りき)の際に見ることあるか。是の時に当り、正行(まさつら)正朝(まさとも)諸子(しょし)は則ち理気並び(つづ)く者なり。新田(にった)菊池(きくち)諸族(しょぞく)気離(きはな)れて理通ずる者なり。是れに由りて之れを言はば、(なん)(こう)兄弟(きょうだい)(ただ)七生(しちせい)のみならず、初めより(いま)(かつ)て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起(こうき)せざる者なければ、則ち楠公の後、()た楠公を生ずるもの、(もと)より(はか)(かぞ)ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。

(かつ)て東に遊び三たび湊川(みなとがわ)()、楠公の墓を拝し、涕涙(ているい)(きん)ぜず。其の碑陰(ひいん)に、明の徴士(ちょうし)朱生(しゅせい)の文を(ろく)するを()るに及んで、則ち亦涙を(くだ)す。(ああ)、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩あるに非ず、師友(しゆう)交遊(こうゆう)(しん)あるに(あら)ず。自ら其の涙の由る所を知らざるなり。朱生(しゅせい)に至りては則ち海外の人、(かえ)って楠公を悲しむ。而して吾れ亦生を悲しむ、最も(いわ)れなし。退(しりぞ)いて理気の説を得たり。(すなわ)ち知る、(なん)(こう)朱生(しゅせい)及び余不肖(ふしょう)、余不肖を()りて以て心と為す。則ち気(つづ)かずと(いえど)も、(しか)も心は則ち通ず。是れ涙の禁ぜざる所以(ゆえん)なりと。余不肖、聖賢(せいけん)の心を存し忠孝の志を立て、国威(こくい)()海賊(かいぞく)を滅ぼすを以て、(みだ)りに(おの)(にん)と為し、一跌(いってつ)再跌(さいてつ)不忠(ふちゅう)不孝(ふこう)の人となる、()面目(めんぼく)世人(せじん)(まみ)ゆるなし。然れども()の心(すで)(なん)(こう)諸人(しょじん)と、()の理を同じうす。(いずくん)ぞ気、体に(したが)って腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)するを得んや。必ずや後の人をして亦余を観て興起(こうき)せしめ、七生(しちせい)に至りて、(しか)(のち)()と為さんのみ。(おあ)()()れに在り。七生説(しちせいせつ)を作る。

解 説

楠木正成の精神が、朱舜水に、また自らの内にも伝わり生きていることを実感した松陰は、そこから精神の不滅を確信し、これを理気の説でもって説明する。そして楠公その他の優れた人々と理を一にしている自分の精神を、七生の後の人々までもこれを受け継ぎ奮い立って欲しいものだと願う。彼は幽室に「三余読書」と「七生滅賊」を座右の銘として掲げて自らを励ましていたが、「七生説」はその頃の松陰の人生観を示すものとして重要である。

 

 

用語解説

七生説 = この世に七たび生まれ変わって国恩に報いると云う説。

天の茫々たる、一理在りて存し = 果てしなく広がる大宇宙は一つの理(陰陽を働かせる力)によってこのように存在している。

父子祖孫の面々たる、一気ありて属く = 父子祖孫は一つの気(宇宙万物を生成する霊気)によって絶えることなく続いている。宋の儒学者、程伊川.朱熹などが唱えた説で、宇宙は理と気とから成ると考え、万物は陰陽の交錯によって生じ、陰陽は気であり、陰陽を働かせ作用させるのが理であると説いた。

斯の理を資りて以て心と為し、斯の気を稟けて以て体と為す = 宇宙の理(陰陽を働かせている力)をもとにして心をつくり、宇宙万物を形成している霊気をもとにして体をつくる。

体は私なり、心は公なり = 体は特定のものであり、心は普遍的なものである。

大人 = 徳のある、立派な人。

小人 = つまらぬ者。

腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)して = 腐り、破れ亡びて。

君子は心、理と通ず...未だ嘗て暫くも()まざるなり = 才知の優れた君子は、その人を動かす心が理(陰陽を働かせる力)と通じるものがあり、身体が消滅し、気(宇宙万物を生成する霊気)が尽き果てても、理だけは昔から今に至るまで天地のように極まりなく、しかも、しばらくその活動をやめたことがない。

楠公 = 楠木正成。一二九四〜一三三六。南北朝時代の武将。建武の新政に、摂津.河内.和泉の守護となる。新政失敗後、足利尊氏の軍を一旦九州へ敗走させたが、その後再度東上兵庫湊川に迎え撃って戦死。

欣然 = 喜ぶさま。

吾が心を獲たり = 私の心にかなっている。

(ぐう)()して死せり = 二人刺し違えて死んだ。

新田 = 鎌倉末期、嫡流の新田義貞は後醍醐天皇に応じ、鎌倉を落とし入れ北条氏を滅ぼしたが、建武政権で足利尊氏と対立。のち、一族は南朝方として各地で戦ったが滅亡した。

菊池 = 一二代武時は元弘の乱に鎮西探題北条英時を博多に攻めて討死。後、その子孫は数台に亙り南朝に属し征西将軍宮を奉じ活躍したが、南北朝合一の後は衰え、戦国時代になって大友氏に滅ぼされた。

忠孝節義の人 = 主君に忠義、親に孝行を尽くし節操の堅い人。

興起 = 奮って立ち上がること。

湊川 = 神戸市の中部を流れる川。下流一帯で湊川の戦いが行われた。

涕涙 = なみだ。

朱生(しゅせい) = 朱舜水。一六○○〜八二。明末の朱子学者。名は之瑜、字は魚璵、舜水は号。明が滅んで日本に帰化し、水戸の徳川光圀に仕えた。湊川の楠公碑に「嗚呼忠臣楠木之墓」と揮毫。徴士は、学徳が高く、朝廷.幕府から招かれながら官職に就かない人。

(ろく)する = 銘文を石に彫り付ける。

海外の人 = 外国の人。

余不肖 = 余は松陰の自称。不肖は謙遜して云う言葉。

一跌(いってつ)再跌(さいてつ) = 跌はつまづくこと。一度ならず二度も失敗すること。

面目の世人に見ゆるなし = 世間の人々に合わせる顔がない。

安んぞ気、体に随って腐爛潰敗するを得んや = どうして、その霊気や身体が消滅するに随って、その心が、破れ滅びてしまうことがあろうか。

 

 

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