睡余事録  (壬子帰国後)抄 

嘉永五年(一八五二)五月十二日〜六月初旬 二十三歳

 

嘉永壬子(じんし)五月十二日、国に帰る。()()屏息(へいそく)して首を一室の中に縮め、以て斧鉞(ふえつ)の誅を待つ。昼は則ち暑を懼れ、夜は則ち蚊を憎み、惟だ睡を是れ愛す。然れども進みて一時に将相たる能はずんば、退きて聖賢を千古に尚友(しょうゆう)するは平日の志なり。ここを以て睡を愛するの余、亦未だ敢へて素志を廃せざるなり。

身皇国に生れて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。故に先づ日本書紀三十巻を読み、之れに継ぐに続日本紀四十巻を以てす。其の間、古昔四夷を(しょう)(ふく)せし術にして後世に法とすべきものあれば、必ず抄出して之れを録し、名づけて皇国雄略と為せり。蘭夷の我が邦に航するは必ず爪哇(じゃわ)より発す。乃ち爪哇の事審らかにせざるべからず、故に海島逸誌を読む。

古今の論策にして時務に切なるもの多し。独り宋の人陳同甫は華夷の弁、君父の義を論じて、天下の大計、古今の得失に及び、尤も痛快と為す、故に陳竜川の文を読む。

玉木彦介来る、為めに詩経を読む。口羽(くちば)寿来る、為めに小学を講ず。佐々木小次郎来る、為めに()(てつ)の文を読む。而して近日家兄と名臣言行録を読む、久保清太郎来り会す。清と鴉片(あへん)隠憂録を読む、(たま)丈人(じょうじん)も亦来り会す。

帰国後より今六月初旬に至るまでの事、大略かくの如し、別に日録なし。以下略

(全集第9巻収載)

 

これは、松陰が東北旅行に行く時、「過所手形」という藩の正式な他国通行証明書(関所通過の時、要開示)の発行を待たず、友人との出発約束を守った行動で、藩から萩に帰国して待罪謹慎中の様子が書かれています。江戸に遊学中、他藩人から「御国の人は日本史に疎い」と言われて気になっていたのだが、多忙で果たせなかった。水戸で弘道館の曾澤正志斎に6回も会い、教えを受けたことから一念発起、待罪謹慎中の時間に猛烈な読書に勤しむ姿が書かれています。暑さと蚊に悩まされながら、一族や友人の来訪と共に勉強している。書名だけでも相当な数です。下線を引いた文言は有名な松陰語録です。勉強家松陰を垣間見る文献です。後年、玉丈人(叔父・玉木文之進)は乃木大将に「松陰の半分も勉強すればたいしたものだ!」と語ったと言います。幼児、父から『神国由来』や『文政十年の詔』を暗誦させられて育ち、尊王論を身近に感じた松陰だったが、ここで日本書紀や続日本紀を一気に読了。ますます尊王論に磨きがかかったと言ってよいでしょう。

ついでながら、この十二月に「吉田家取り潰し、御家人召し放ち」となります。時の藩主慶親は「国の宝を失った!」と嘆息したと言う。後に、このことを漏れ聞いた松陰は、感激してますます藩主への忠誠を心に誓うことになります。

 

 

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