日下(くさか)実甫(じつほ)東行(とうこう)を送る(じょ)

戌午(ぼご)幽室文稿)安政五年二月上旬(一八五八)二十九歳

 

吾が妹婿(まいせい)日下(くさか)実甫(じつほ)は年(いま)弱冠(じゃっかん)ならざるも、志荘(しそう)気鋭(きえい)、之れを(めぐ)らすに才を以てす。吾れ(かつ)て推すに吾が藩の少年第一流を(もっ)てせり。ことし二月、(まさ)に山陽より東上し皇京(こうけい)(よぎ)り、更に東のかた江戸を見んとし、(そう)(げん)を余に()ふ。()()へらく、今や天下大変(だいへんかく)(きざし)あり、(しこう)して実甫(じつほ)は吾が(しゃ)領袖(りょうしゅう)なり、吾れの()れに(かた)(いずく)んぞ尋常(じんじょう)(げん)を以てせんやと。吾れ(よう)より(この)んで震旦史(しんたんし)を読む。而して其の宋(ほろ)びて胡元(こげん)となり、(みん)(ほろ)びて満清(まんしん)となりしこと、独り(みずか)ら感あり。()震旦(しんたん)なるもの、三代(かん)(とう)儼然(げんぜん)として中夏(ちゅうか)を以って自ら居り、()獫狁(けんいん)匈奴(きょうど)の如き者ありと(いえど)も、以って勝ちて之を上ぎたるは拓跋(たくばつ)契丹(きったん)を然りと為す。然れども(いま)(かつ)区夏(くか)包挙(ほうきょ)せざるなり。唯だ胡元(こげん)満清(まんしん)則ち()く之れを包挙(ほうきょ)す。是れ固より震旦(しんたん)の大変革なり。而して其の時に及んでは、()(げん)(おう)胡身之(こしんし)徐昭法(じょしょうほう)魏叔子(ぎしゅくし)諸人(しょじん)の如きあり。許衡(きょこう)陸隴其(りくろうき)諸人の如きあり。その他因循(いんじゅん)依違(いい)すると、狼狽(ろうばい)顧望(こぼう)する者との(りゅう)()げて(かぞ)ふべからず、而して(きょ)(りく)(ともがら)()(ある)いは(あお)ぎて正学(せいがく)純儒(じゅんじゅ)()()()(じょ)()諸人(しょじん)に至りては、亡国の一清(いっせい)節士(せつし)と為すに過ぎず。然らば則ち世俗(せぞく)の論、何ぞ(とも)軽重(けいちょう)を為すに足らんや。抑々(そもそも)震旦(しんたん)の国たるや、廃興(はいこう)相仍(あいよ)り、(もと)より()ふに足るものなし。而して明季(みんき)の事、(ひと)(すこぶ)る観るべし。蓋し燕土(えんど)に死する者あり。金陵(きんりょう)に死する者あり、台湾に死する者あり。呉三桂(ごさんけい)()可法(かほう)耿尚忠(こうしょうちゅう)の如き者に至りては満清(まんしん)称して三叛(さんはん)と為すこと。猶ほ(いん)頑民(がんみん)の如し。嗚呼(ああ)、此の四者は(もと)より()()(じょ)と其の(こころざし)を同じじうして、決して(きょ)(りく)()(あら)ざるなり。(いま)()神州(しんしゅう)宴安(えんあん)無事(ぶじ)なること二百余年(よねん)一旦(いったん)墨夷(ぼくい)

一价(いっかい)()せ、征夷(せいい)()に入るや、征夷府(せいいふ)(まさ)に国を()げて()かんとす。天下の事、ここに於いて知るべきなり。(しこう)して吾人(ごじん)此の間に処する、(よろ)しく(いず)れの所へか適従(てきじゅう)すべき。()()(じょ)()(けだ)し志ありしならん、(しか)れども()す所なくして死す。(きょ)(りく)とは正学(せいがく)純儒(じゅんじゅ)と称せらると(いえど)も、吾れは(ばん)(したが)(あた)はざるなり。(えん)()金陵(きんりょう)台湾と所謂(いわゆる)三叛(さんはん)なる者とは、其れ必ず一に宜しき所あるなり。()し乃ち(りゅう)(ぶん)(しゅく)漢室(かんしつ)再造(さいぞう)し、朱元璋(しゅげんしょう)胡塵(こじん)掃蕩(そうとう)するは、彼に在りては方に(うら)みなきものと()ふべし。実甫(じつほ)()け。()()(かん)に生まれて、()く所を(えら)ぶを知らざれば、士気(しき)才気(さいき)と、()た何の(もち)ふる所ぞ。生の死に()かざるや之れ久し。実甫(じつほ)の行、皇京(こうけい)に過り、江戸を()れば、其れ必ず(あまね)く天下の英雄豪傑倜儻(てきとう)の士を見ん。()きて(とも)に此の()討論(とうろん)し、以ってこれを至当(しとう)に帰し、(かえ)りて一国の公是(こうぜ)を定むるは、誠に願う所なり。()(しか)(あた)はざれば、吾れの()すに少年第一流を以ってせしは、一家の私言(しげん)となりて、天下の士に()ずべきや大なり。実甫(じつほ)()け。(これ)贈言(ぞうげん)となす。

 

 

解 説

久坂玄瑞は前年十二月に松陰の妹文(美和)と結婚している。本文は学業稽古(がくぎょうけいこ)のため三年間の江戸留学の途につく妹婿(いもうとむこ)玄瑞に贈った送叙(そうじょ)である。「狂夫の言」に言う「大患」の最中の東上(とうじょう)である(二月二十六日出立)。松陰にとっては義弟(ぎてい)であり、長州藩の少年第一流の人物と見込んできた玄瑞である。ここにおいて、天下の英雄豪傑倜儻(てきとう)の士との討論を通じて、日本の進むべき方向を模索(もさく)してくるよう激励している。玄随も正月十三日には国老益田(だん)(じょう)に書をおくり、時局(じきょく)打開のために家老に期待するところを述べている。「國相(こくそう)益田弾正君に上る書」(久坂然瑞全集)。松陰はまた江戸にある(かつら)小五郎(こごろう)及び長原武に宛てて玄瑞のことを頼んでいる。(「桂小五郎(あて)」二月十九日、「長原武宛」二月二十八日)。

 

 

 

 

用 語 解 説

日下実甫(くさかじつほ) = 久坂(くさか)玄瑞(げんずい)、(一八四〇〜六四)実甫は字。松下門下の逸材。松陰の妹文の婿となり村塾では、富永有隣(とみながゆうりん)や久保清太郎らと共に助狂教的存在であった。安政五年二月に江戸遊学(ゆうがく)のため萩を出発した。

送る(じょ) = 人が旅立つ時、その人への期待や旅の意義、安全等を述べてはなむけとする文章。送叙(そうじょ)贈叙(ぞうじょ)に同じ。 

(じゃっかん) = 数え年二十歳。 

志壮(しそう)気鋭(きえい) = 志が盛んで意気込みが鋭いこと。

之れを運らすに才を以てす = その志と才知によって運用する。

吾れ(かつ)て推すに = 私はこれまでに推薦したことがあった。

皇京(こうけい)(よぎ)り = 御所のある京都に立ち寄り。  贈言=ここでは贈叙。送る叙に同じ。

我社の領袖(りょうしゅう) = 松下村塾の中心人物。

寧んぞ尋常の言を以てせんやと = どうしてありきたりの贈言でよかろうか。

震旦史(しんたんし) = 中国史。昔インドで中国を震旦(しんたん)と呼んだ。

胡元(こげん) = 中国の元朝(一二七一〜の一三六八)賤称(せんしょう)

満清 = 中国の清朝(一六一六〜一九一三)のこと。中国東北部の満州地方にいた満州族が漢民族の明を滅ぼして建国した。

三代 = 古代、中国の夏、殷、周の三王朝。

儼然として中夏を以て自ら居り ­= 犯し難いほどの威厳を持って、世界の中心に位置する文明国として誇った。

間ま = 時として。

獫狁(けんいん)匈奴(きょうど) = 前四世紀末頃から蒙古地方を根拠地にして中国を脅かした遊牧騎馬民族の一つ。中国の周代「には獫狁と呼び、漢代以降は匈奴といった。

拓跋(たくばつ) = 中国の北方にあった一種族。四世紀後半に華北に侵入し北魏(三八六〜五三四)を建国した。

契丹(きったん) = 中国の東北部にあった一種族。一○世紀初めに万里の長城地帯に侵入し、中国東北部、モンゴル、華北にまたがる国家を建設し後に遼(九三七〜一二五)と称した。

区夏(くか)包挙(ほうきょ)ざるなり = 中国本全域を征服していない。

家鉉(かげん)(おう) = 中国、宋末、元初の人。眉山の人で字は則堂。南宋滅亡後、元の招きを退けて仕えず、清節を守った。

胡身之(こしんし) = 一二三○〜一三○二 中国、宋末、元初の歴史学者。浙江省(せっこうしょう)のひとで字は身之。南宋滅亡後、元に仕えず抵抗の意を秘めながら、ひたすら『史治通鑑』(中国の史書、宋の司馬光の著)の注釈に専心した。

徐昭法 = 中国明末、清初のひと。字は昭法。明に仕えたが、滅亡後は清節を守り、身を終えた。著書に『居易堂集』がある。(『野山獄文稿』中の「居易堂集を読む」)

魏叔子 = 一六二四〜八○ 中国、清初の代表的文章家。字は冰叔。明の滅亡後も清に抵抗し、野にあって学を講じた。(「丁巳幽室文稿」中の「魏叔子文鈔を読む」

許衡 = 一二○九〜八一 中国、元の学者。字は仲平。朱子学者として名高く、元に仕え朝廷の漢化に尽力した。著書「許文正公遺集」一二巻。

陸隴其 = 一六三○〜九二 中国、清初の学者。字は嫁書。朱子学者として清に仕えた。

因循依違 = どっちつかずで、態度がはっきりしない。

狼狽願望=うろたえながら、周囲を見回して様子を窺う態度。

勝げて計ふべからず=多くていちいち数え切れない。

正学純儒 = 孔子の教えを純粋に継承した儒学者。

一清節士 = 清廉潔白で節操の固い人物。

廃興相仍り足るものなし = 中国では、王朝の興亡が繰り返されており、これは皇統連綿たる我が国(日本)に比べると誠に言うにたらない。

明季の事 = 中国明朝末期の状況。

燕土 = 現在の中国の首都である北京のこと。明朝の永楽帝以降、首都となった。

 

金陵 = 中国南京の古名。明朝の最初の首都がここにおかれた。

台湾に死する者あり=明の遺臣鄭成功等は清に追い詰められて台湾に渡り、明の再興を図ろうとして戦ったが、敗死した。

呉三桂、史可法、耿尚忠=耿精忠が正しい。呉三桂(一六一二〜七八)、耿精忠(?〜一六八二)は何れも明より帰順して清の中国平定に功を立てたが、ごに明の再興を図って背き(三藩の乱)殺された。史可法(一六○二〜一六四五)は明滅亡の時に福王を擁して挙兵したが、揚州で捕えられ殺された。

三叛 = 三藩の乱 一六七三〜八一 をいう。

殷の頑民 = 殷が滅び周の時代になったにもかかわらず、殷の旧王室を敬って周に従おうとしない頑迷な人民。

神州 = 神国日本   

宴安無事 = 安らかで平穏なさま。

墨夷一价を馳せ = アメリカ合衆国が使者を出向かせるの意。領事ハリスを派遣したこと。

征夷府将に国を挙げて聴かんとす = 幕府が、アメリカ合衆国ブキャナン大統領の親書,及びハリスの口上書を諸侯に示し意見を求めたことをさす。

吾人=私。   

適従 = 身を寄せること。 

万従う能はざるなり = 決して従うことは出来ない。

劉文叔 = 前六〜後五七 中国後漢の創健者。光武帝。名は秀、字は文叔。王莽の新を破り漢王朝を再興した。

朱元璋 = 一三二八〜九八 中国、明の創建者。洪武帝。モンゴル人の元(胡塵)を滅ぼして漢民族国家を再興した。

掃蕩 = はらい除く。平定する。

士此の間に生まれて何の用ふる所ぞ = 武士たる者、こうした時勢の仲に生まれていながら、自分の行くべき道を選択出来ないならば、志気も才能も何の役に立つと言うのか。

生の死に如かざるや之れ久し = 生は永遠に死に及ばない。

倜儻の士 = 才気が衆人に比べ、かけ離れて優れていること。

往きて与に此の義を討論し誠に願ふところなり = 京都や江戸の豪傑達と世の大変革について大いに論じ、何をなすべきか、最も適当な方向を見定め、帰藩して長州藩の方針を決めることは私(松陰)の最も願う所である。

 

 

若し然る能はざれば愧ずべきや天なり = もし、それが出来ないならば私(松陰)がおまえ(玄瑞)を第一流の人物と推奨してきた言葉が、単なる私一個人のものに終り、天下の士に対し大いに恥じなければならない。

 

 
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