『諸妹宛』書簡

 

五月十四日(安政六年)

松陰在野山獄 諸妹在萩   二十九才

 

拙者儀此の度江戸表へ引かれ候由、如何なることか趣は分り申さず候へども、いづれ五年十年に歸國相成るべき事と存ぜず候へば、先づは再歸仕らずと覺悟を決め候事に付き、何か申し置くべき儀あるべき様に候へども、先日委細申上げ進じ置き候故別に申すに及ばず候。拙者此の度假令一命差棄て候とも、國家の為に相成る事に候はば本望と申すものに候。两親様へ大不孝の段は先日申候様其の許達仰せ合され、拙者代わりに御盡しくださるべく候。併し两親様へ孝と申し候とも、其の許達各々自分の家之れある事に候へば、家を捨てて實家へ協力を盡され候様の事は却って道にあらず候。各々其の家其の家を齊へ夫を敬ひ子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。婦人は夫を敬ふ事父母同様にするが道なり。夫を輕く思ふ當時の惡風なり。又驕りが甚だ惡い事、家が貧に成るのみならず、子供の育ちまで惡しく成るなり。心學本間合い合いに讀んで見るべし。高須の兄様抔に讀んで貰ふべし。高須兄は従兄弟中の長者なれば大切にせねば成らぬ御方なり。

五月十四日夜                寅二

児玉お方様

小田村お方様

久坂お方様  參る。

尚々時もあらば又々申し進ずべく候。

 

【用語】

先日委細申上げ進じ置き = 四月十四日付け「千代宛」書簡をさす。野山獄中から。

肝をやかぬ様に = 心配をかけたり、悩ませたりしないように。

當時 = この頃。

心學本 = 石田梅岩が創唱した平易な実践道徳。神・儒・仏・道諸教のあらゆる心理を摂取して、農工商平民のために通俗卑近の例をあげて、忠孝信義を説いたもの。

高須の兄様 = 高須為之進。松陰等兄弟の従兄弟にあたる。

児玉・小田村・久坂お方様 = 児玉祐之妻千代(祐之は杉家五代目百合之助常道)の妻瀧子の義父児玉太兵衛寛備の嫡子である)・小田村伊之助妻寿・久坂玄瑞妻文、ともに松陰の妹。文は寿の死後、小田村伊之助(後の楫取素彦)の後妻として嫁している。

 

 

※、安政六年五月、野山獄にあった松陰は兄より「幕府召喚命令」を伝えられた。生還の実現性が少ないと考えた松陰は、嫁いでいる妹たちに事情説明と心の内を語り、なおかつ

「婦人の道」を説きつつ、従兄弟の高須為之進に教育の一助を願えと進言している。

 

 


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