『偶 記』 十二月十六日
物には果して因縁あるか、抑々非ざるか、吾れ夙に之に惑ふ。昔吾れの亡命せしとき、周布公輔実にせいふに在り、籍を削り禄を奪はんことを議す。吾れの海に入りしとき、公輔復た政府に在り、議して之を野山獄に投ず。今吾れの再び獄に投ずるや、公輔復た政府の議を主どる。
公輔數々政府に出入りし、政府余を罪する毎に必ず公輔あり。小田村士毅は則ち之に反す。」亡命・入梅の二變には其の弟健作と與に周旋救護甚だ力む。亡命の時の如き、健作じつに之が為に連座せり。今健作遠く遊びて還らず。余塾を松下に起こすや、方に士毅と謀り、健作を迎へて其の師と為さんと欲す、事未だ遂げずして余再獄の命下る。士毅ここに於て死力を出して余を救はんと欲し、重く罪を獲と雖も顧みず。政府固執して事諧はずと雖も、余は素則ち褚中の感なき能はず。而して頗る因縁の是非に惑ふあるなり。臘月十六日
右は去冬余将に獄に赴かんとし、秘かに記して篋に蔵せり。吾れ挫折困辱して悲憤兼ね至り、往々知舊に加ふるに悖慢の語を以てす、以て吾が士毅の如きと雖も、或は忌憚なし。知らざる者は遂に以て交を全うする能はずと為す。噫、吾れの知を恃みてここに至る。過も亦大なり。吾れ恐る。子孫雲仍深く父祖相與の際に通ぜず、従って嫌隙を生ぜんことを。今米甥幟を建つるに因りて、詩を贈り遂に録して阿妹に寄せ、密かに之れを識し以て他日子を誨ふるに資すると云ふ。端午の日、狂兄寅次手録す。