高杉暢夫を送る叙 (戌午幽室文稿)安政五年七月十八日(1858)二十九歳
余嘗て同士中の年少多才なるを歴選し、日下玄瑞を以て第一流となせり。已にして高杉暢夫を護たり。暢夫は有識の士なり。而れども学問早からず、又頗る意に任せて自ら用ふるの癖あり。余嘗て玄瑞を挙げて、以て暢夫を抑ふ、暢夫心甚だ服せざりき。未だ幾ばくならずして暢夫の学業暴かに長じ、議論益々卓く、同士皆為めに衽を斂む。余事を議する毎に暢夫を引きて之を断ずるに、其の言往々にして易るべからず。ここに於いてか玄瑞も亦尤も之を推して曰く、「暢夫の議や及ぶべからず」と。暢夫反って更に玄瑞の才を推して、当世無比と為す。二人懽然として相得たり。余或るとき傍より之を賛して曰く、「玄瑞の才はこれを気に原づけ、而して暢夫の識はこれを気に発す。二人にして相得たれば、吾れ寧んぞ憾みあらんや」と。是れより先。玄瑞已に東遊し、暢夫も今亦将に東せんとす。相後るること蓋し六月の間のみ。而して天下のいきおい、変動すること一ならず。当今幕府、勅に違ひて慮と和す。天子赫然として幕府に詔し、三家.大老を召したまふ。幕府の従違未だ測度すべからず。天下疑懼し。左右観望す。而して吾が藩新たに幕命を受けて、兵庫に備ふ。兵庫は攝津に属し、所謂畿内なり。畿内の地は、天朝切に之を夷狄に仮すを禁じたまふ。
而して幕府は五港を以て墨夷に許す。兵庫は蓋し其の一なり。且つ聞く吾が君
吾が相は征夷の謀を是とせず、将に書を幕府に上りて之を諫争せんとすと。ここに於いてか吾が世子に江邸に在り、ひと或いは去留を以て世子の為めに危ぶむ。而して武門の大義は苟も去るべからず、去りて達せざれば、適々人の謗りを招くを知らざるなり。暢夫論議を此の間に建て、多く余の意と合ふ。而も其の精識なるに至りては、則ち余の及ぶ所に非ざるなり。暢夫の事を議するや、素と持重多かりき。近ごろは則ち振発凌励専ら気を以て之れを行るの者の如し、蓋し其の識の進むあるなり。玄瑞向に京に在り、便ち王事に死せんと欲す。東下の後に及んで、又大艦に駕し、黒竜江に赴かんことを謀る。其の事に遇いて難易を辞せず、身を奮つて之れを為すこと、率ね常に斯くの如し。然れども吾れ独り其の或いは多岐に失せんことを憂ふ。暢夫.玄瑞固より相得たり。暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何をか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失ふべからず。桂.赤川は吾れの重んずる所なり。無逸.無窮は吾れの愛する所なり。新知の杉蔵は一見して心与せり。此の五人は、皆志士にして、暢夫之れを知ること熟せり。今幸に東に在り。暢夫往け。急ぎ玄瑞を招きて之れを道ひ、且つ之れを五人の者に語れ。七月十八日
高杉暢夫 = 高杉晋作 一八三九―六七 松下村塾の一人。久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称せられる。松陰の死後、奇兵隊を組織して討幕の機運を促進したが病没。
送る叙 = 人が旅立つ時、その人への期待や旅の意義、安全等を述べてはなむけとする文章。送叙、贈叙も同様
歴選 = あまねく選ぶ。
日下玄瑞 = 久坂玄瑞。一八四○―六四 松下門下の逸材。松陰の妹文(ふみ)の婿となり村塾では富永有隣や久保清太郎らと共に助教的存在であった。安政五年二月に江戸遊学のため萩を出発した。
有識の士 = 高い見識を持った人物。
早からず = 十分に進んでいない。
服せざりき = 納得して従わなかった。
頗る意に任せて自ら用ふるの癖あり = 気ままな言動があり、自分の才知をたのんで、万事をじぶん一人で処理する性癖がある。
未だ幾くならずして = 短時日の間に。
暴かに長じ = 忽ち長足の進歩を遂げ。
卓く = 他の者よりはるかにすぐれ。
衽を斂む = 衣服や態度を改めて、相敬意をあらわす。
往々にして = しばしば。たびたび。
易る = 相手を自分より劣ったものとして見下す。侮る。
懽然ちして相得たり = 喜び楽しんで意気投合した。
賛して = ほめて。
「玄瑞の才はこれを気に原づけ...憾みあらんや」 = 玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識見は気から発したものである。二人が互いに意気
東遊 = 江戸遊学
当今幕府、勅に違ひて慮と和す = 安政五年六月一九日、幕府は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を締結した。慮は外的の意で、ここではアメリカ合衆国をいう。
赫然=かっと怒るさま。
三家.大老 = 徳川家の尾張.紀伊.水戸の三親藩と大老井伊直弼。
従違 = 従うことと逆らうこと。
測度 = 推し測る。
疑懼 = 疑い怖れる。
観望 = 様子や成り行きを窺う。
吾が藩新たに幕命を受けて、兵庫に備ふ = 安政五年、長州藩は幕府の命令を受けて兵庫に陣を構えた。(防禦のため)
摂津 = 現在の大阪府北部と兵庫県東南部の地域。
仮す = 貸し与える。
幕府は五港を以て墨夷に許す = 日米修好通商条約締結により幕府は神奈川.
函館.長崎.新潟.兵庫の五港を開港した。
吾が君 = 藩主毛利敬親。
吾が相 = 行相の益田親施(弾正)。
世子 = 藩主毛利敬親の後継者である毛利元徳。
江邸 = 江戸の長州藩邸。
去留 = 去るか留まるか。
謗り = 非難。
精識 = 優れて見識が高い。
持重 = 慎重。
振発凌励 = 気力を奮い起こし、がむしゃらに進むさま。
王事 = 皇室に対する務め。
黒竜江 = アムール川。中国東北部とシベリアとの境となる川。一七世紀中頃シベリア開拓中のロシア人が江岸に到達、ロシア.清の衝突を起こした。一九世紀中頃再びロシア人が進出し、一八五八年、愛琿条約を結んで黒龍江来たの地を取り、黒竜江松花江の航行権を手に入れた。
多岐に失せん = すべきことが多すぎて大切なものを見失うだろう。
何をか為して成らざらん = どんなことをしても成就しないものはない。
桂.赤川 = 桂小五郎(木戸孝允).赤川淡水。
無逸.無窮 = 吉田栄太郎(稔磨).松浦亀太郎(松洞)
新知 = 新たに知り合うこと。
杉蔵 = 入江杉蔵(九一)
心与せり = 心を許す。
※ 高杉晋作は久坂玄瑞と共に、松下村塾の双璧とされた人物で、村塾へは安政四年、玄瑞よりすこし後れて入塾した。二人は年齢も近く高杉が一歳年上であり、共に素質に恵まれた青年であった。松陰は彼等が互いに長所を認めて敬し合い切磋琢磨するライバル関係におくことで両人の伸長を期待していた。そこに松陰の個性教育の手法の一面が見られる。この叙文は、文学修行を命ぜられて江戸へ旅立つ高杉に贈った送叙で暢夫の識を以て玄瑞の才を行うならば、成就しないものは無いと厚い信頼と期待を寄せると共に、「暢夫よ、暢夫天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」と戒めている。二人が師松陰の遺志をよく継承し、幕末多事の間を志士として存分の活躍をしたことはよく知られている。
※ この送叙は数ある松陰の送叙の中でも、とりわけ教育的見地から高く評価されている名文の一つである。尊敬する師から、厚い信頼と激励.期待を込めたものが読み取れ、子弟教育の見本のような文であるばかりでなく、弟子として暢夫が発奮し使命感に燃えて活躍することになる。それは、後に松陰の「草莽崛起」の考えを継承した暢夫の「奇兵隊」組織となり、幕末史の長州藩の大車輪の活躍(尊王討幕運動)へと連なって行く。松下村塾における松陰の子弟教育(人間教育)のハイライトの一つとして、特筆される名文である。期待を一心に受け、発奮する暢夫の、その後の活躍がこうした教育の在り方から維新回天の人材育成の手法が、松下村塾をして一躍有名たらしめた一端を窺うことが出来る。教育者松陰の面目躍如たる一面を知るに格好の史料でもある。