士規七則 毅甫加冠に贈る (野山獄文稿 安政二年、二十六歳)
冊子を披繙すれば、嘉言林の如く躍々として人に迫る。顧ふに人読まず。即し読むとも行なわず。苟に読みてこれを行はば、則ち千萬世と雖も得て尽くす可からず。噫、復何をか言わん。然りと雖も、知るところ有りて言わざること能はざるは人の至情なり。古人これを古に言い、今我諸を今に言ふ。また何ぞ傷まん。士規七則を作る。
一、 凡そ生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以をしるべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は忠孝を本と為す。
一、 凡そ皇国に生まれては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして邦国の士夫世々禄位を襲ぐ、人君は民を養い以て祖業を続ぎたまひ、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯吾が国のみ然りと為す。
一、 士道は義より大なるは莫し、義は勇に因りて行われ、勇は義に因りて長ず。
一、 士行は質実にして欺かざるを以て要となし、巧詐を以て過を文るを恥と為す。公明正大、皆これより出ず。
一、 人は古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば則ち鄙夫なるのみ。書を読み友を尚ぶは君子の事なり。
一、 徳を成し材を達するに、師恩友益は多きに居る。故に君子は交游を慎む。
一、 死而後已の四字は、言簡にして義広し。堅忍果決にして確乎として抜くべからざるものは、是を舎きて術なきなり。
右士規七則は、約して三端を為す。曰く、志を立つるは万事の源為り、交を択びては以て仁義の行を輔く、書を読み以て聖賢の訓を稽ふと。士苟にここに得る有らば、亦以て成人と為す可し。
用 語 解 説
毅甫=従弟の玉木彦介。 披繙=書物を読む、ひもとく。
嘉言林の如く=立派な言葉が沢山ある。
躍々として=勢いよく。千万世と雖も得て尽くすべからず=(嘉言の実践は)千万代かかっても行い尽くすことは出来ない。
何をか言はん=何とも言いようがない。
言わざること能はざるは、人の至情なり=言わないわけにはいかないのが人情である。亦何ぞ傷まん=またどうして思いわずらうことがあろう。
禽獣=鳥や獣。 所以=理由。 蓋し=おおかた。
五倫=人間の守るべき最も大切な五つの道。君臣、親子、夫婦、長幼、朋友の間に存する人の道。 皇国、皇朝=日本。 忠孝=主君に対する忠義と親に対する孝行。 宇内=世界。 萬葉一統=万世一系のこと。同一の血統が永遠に続くこと。
邦国=日本。 士夫=臣下、武士。 禄位=俸禄と官位。
祖業=祖先が開いた事業。 義=人間が守るべき義しき道。
質実欺かざる=正直、誠実、嘘、偽りがないこと。
巧詐過を文る=嘘をつき偽ること、ごまかすこと。
光明正大=心に少しのやましさも暗さもなく、言動は正しく大きい。
古今に通ぜず=歴史を知らぬこと。 聖賢=孔子や孟子。
鄙夫=取るに足らぬつまらぬ人物。 尚友=昔の賢人を友とすること。
徳を成し材を達する=人格を磨き高めて立派な人物になること。
君子=立派な人間 交游=交遊 死而後已=死ぬ時まで一生力を尽くすこと。
義広し=意味が深い。堅忍果決=意志が強く忍耐力があり果断なこと。
確固として抜くべからざるもの=しっかりとして動かすことができないもの。
術=やり方、方法。 成人=人格、教養の完成した人。
約して三端と為す=要約して三つの実践項目にまとめる。即ち、立志、択交、読書。 仁義の行を輔く=仁(親愛)と義(道理)に基づいた、立派な行為の補助とする。
聖賢の訓を稽ふ=聖賢の教えの現代的意義を考える。
解 説
「士規七則」は、野山獄における思索の間に執筆したものを、叔父玉木文乃進の添削を経て成ったものであり、たまたま加冠を迎えた玉木の嫡男英彦介に、その大成を祈念して贈られた。
下田踏海の件で罪を得て囚徒と成った松陰である。だが、そこには一般の囚徒に見られる恥辱の思いとか罪の意識はなかった。逆に、その挙を「猛」と把えて「二十一回猛士の説」を綴り、また『幽囚録』においてはその挙が日本の国にとって不可欠で正当な行為であることを論証する松陰であった。こうした野山獄中での思索は、さらに人間の真の在り方、武士たる者の生き方の指針に思いを馳せることになった。「士規七則」はそうした過程で発想された。
第一則は、人間の人間たる所以を、第二則は皇国民の立場を、第三則と第四則は個人としての士道の在り方を述べ、第五則以下では士の道を確立するための心がけるべき事柄を記している。
なお、「右士規七則、約して三端と為す。」に始まる後文の「端」の語は端緒の端で物事のきっかけ、糸口を意味するもので「立志、択友、読書」の三者を持って七則を確実に自分のものにするための不可欠の端緒としていると解すべきであろう。
「士規七則」が松下村塾生達の指針とされたことは言をまたないが、戦前の男子中等学校の中には、これを生徒の生活指針として活用したところも少なくなかったようである。