『奉拝鳳闕詩』長崎紀行収載(全集:第九巻、三四六頁収載)

嘉永六年十月二日作

(原文)

山河襟帯自然城 形勝依然舊 神京今朝盥

嗽拝 鳳闕野人悲泣不能行 上林黄落秋寂寞

空有山河無変更聞説 今皇聖明徳敬天愛民發至

誠鶏鳴乃起親齊戒祈掃妖氛致太平安得 天詔

勅六師直使 皇威被八紘従来 英皇不世出悠々失

機今公卿人生如萍無定在 何日重拝 天日明

是寅癸丑十月拝禁闕作也後六年有八十八卿詣闕抗疏之事 天子聴

納勅諭汗発而四方不能遵則外藩更愧也己未五月下浣藤寅録

 

(書き下し1

山河禁帯自然の城、形勝依然として舊き神京、今朝

盥嗽して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、

上林黄落して秋寂し、むなしく山河のみありて変更なし、

聞くならく今上聖明の徳、天を敬い、民を愛するは

至誠より発したまう、鶏鳴乃ち起きて親しく齊戒し、

妖氛を払って太平を致さんことを祈りたまう、安んぞ

天詔を六師に勅し、直ちに皇威をして八紘に被らしむるを

使いす、従来英皇不世出、悠々機を失する今の公卿、

人生萍の如く定住なし、何れの日にか重ねて天日の明

を拝せん

 

 是れ寅、癸丑十二月禁闕を拝して作る也。後六年、

 八十八公卿が闕に詣でて抗疏の事あり。天子徳して

勅諭を納め、汗發して四方遵則する能わず。

 外藩更に愧じるべき也。己未五月下浣う。藤寅録

 

嘉永六年、松陰は長崎に停泊中の露艦で海外に密航しようとして

江戸を出発。途中京都に立ち寄り、「梁川星巌」を訪ねたところ、

星巌から、孝明天皇の時局への御深憂を承り、恐懼して感激。十月

二日朝、皇居を拝してこの詩を作ったのである。

『聞くならく』とは星巌から聞いたと意味であろう。公卿の時局に対する

道の講ぜられないことへの不満とともに天皇の存在を実感して作ったのである。

この幅は明治十五年十二月、天覧に供し奉り、後に帝室(現宮内庁書陵部)御物

となっている。尊王の松陰の心はさぞかし満足であろう。

 

此れについては、秘話がある。

松陰門下である子爵品川彌二郎は明治維新後、

この詩を以て前の右大臣岩倉具視に質したところ、

 

慨然襟を正して「是れあるかな、吾れ平素玉座に親近し備に先帝の御性行を審にし奉り、深く其励志刻行に感動し奉れり。

 

先帝には毎朝鶏鳴の候に至れば親ら沐浴齊戒して外敵膺懲皇威宣揚を祈り

給はずと云うこと無し。此の詩は實に先帝の御性行を寫し盡して一字も虚飾を用いず

、吾れ松陰の善く先帝を知るの深きに感ぜざるなき能はず」と語ったという。

 

 

※この天覧の七年後の明治二十二年、皇后陛下より、松陰の母「お滝」へ下賜品が下されたのであった。このいきさつ及び関連記事は、全集に収載されており、「品川彌二郎」が、受取り、後日手紙を添えて、萩の杉民治(梅太郎)に送った。

感涙にむせぶ品川が、涙ながらに受取る時、万感胸に迫り、両手をついたまま「顔をあげられなかった」と手紙に書かれている。「彌二が心事、お察しくだされ度候」と記し、非常に感激する文面となっている。地下の吉田松陰の靈はもちろん、その母もさぞかし誇りに思ったことだろう。とは、品川の述懐である。ちなみに、この翌年、即ち明治二十三年、「たき」は天寿を全うするのである。戦前の「修身」にも「日本の母」のよき手本として、掲載されたので、私の書庫にも保管されている。

 


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