岡田耕作に示す(戌午幽室文稿) 安政五年(一八五八)正月二日 二十九歳
正月二日、岡田耕作至る。余為めに孟子を授け、公孫丑下篇を読みて訖る。村塾の第一義は、閭里の俗礼を一洗し、枕戈横槊の風と為すに在り。ここを以て講誦除夕を徹し、未だ嘗て放学せざるなり。如何ぞ年一たび改まれば、士気頓に弛める。三元の日、来りて礼を修むる者はあれども、未だ来りて業を請ふ者を見ず。
今、墨使府に入り、義士獄に下る、天下の事迫れり、何ぞ除新あらんや。然り而して松下の士、猶ほ皆此くの如し、何を以てか天下に唱へん。今耕作の至るや、適々群童の魁となる。群童に魁するは乃ち天下に魁するの始めなり。耕作年甫めて十齢、厚く自ら激励す、其の前途寧んぞ測るべけんや。書して以て之れを励ます。
用語解説
岡田耕作 = 一八四九〜没年不詳。 藩医岡田以伯の子。松下村塾生。
閭里の俗礼を一洗し = わが松下村の卑俗なしきたりや制度を刷新する。
枕戈横槊 = 戦場にあって戈を枕にし、また槊(柄の長いほこ)を自分の横に置くということから、油断せず戦闘の準備を心掛けることの例え。
講誦除夕を徹し = 講誦は書物等を講じ、声をあげて読むこと。除夕は除夜
(大晦日の夜)
墨使府に入り、義士獄に下る = 米国総領事ハリスが安政四年一○月二一日、江戸城で将軍に謁見しブキャナン米大統領からの親書を渡した。一方、ハリスの登城を聞き、水戸藩士の蓮田東三、信太仁太郎、堀江克之助の三人は義憤からハリスを討とうとするが果たせず、自首して伝馬牢の獄に繋がれた。
除新 = 年末と年始。 年甫めて十齢 = 年齢がやっと一○歳になったばかり。
解説
岡田耕作が年賀でなく、学習の為に来塾したことに感銘して書き与えたものである。耕作はこの時十歳、その「厚く自ら激励」している姿に感じたもので、それは、「学問の大禁忌は作輟なり。或いは作し、或いは輟むることありては遂に成就すること無し」(『講孟余話』公孫丑(上)第二章)と常々考えている松陰の持論に発したものといえよう。松陰からこういう文を与えられて褒められ励まされたことは耕作にとって生涯忘れられないことだったであろう。耕作のその後の経歴は不明である。『戌午幽室文稿』は、安政五年(戌午)に執筆された文稿、書簡などを合わせて九十九篇を集録し、附録として数種の漢詩を載せている。当時の松陰の思想、心情、人間関係などを知るうえで貴重である。