入江杉蔵への手紙(学校の興隆構想のこと)
安政6年(1859)10月20日(全集第8巻、422頁)
この日、松陰は入江宛に2通、飯田正伯・尾寺新之丞宛、父叔兄宛と4通書いた。更に途中まで書き掛けて止めた『諸友宛』の、「諸友に語(つ)ぐる書」という遺書を書いた。
この精神力には敬服以外にない。見事な人生の締めくくりの覚悟であります。
原文を下記します。
「兼ねて御相談申し置き候尊攘堂(そんじょうどう)のこと、僕は弥々(いよいよ)念を絶ち候。・・・京師に大学校を興し、上、天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿等も出来候様致し、恐れながら天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材英能を天朝の学校に貢し候様致し候へば、天下の人心一定仕るに相違なし。・・・只今学習院は学職方は公家なり。儒官は菅・清家と地下の学者と混じて相務められ、定日ありて講釈之れあり。是の日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上方御出座なり。」
10月16日に評定所での「口書」(調書)の読み聞かせがあり、これで死罪を覚悟しながらも、愛弟子に日本国の将来を託す方策として「学校」を興そうとしていた。
松陰は国力増大、国富の実現には教育が不可欠としていた。
日本国への切々たる思いが偲ばれます。
同時に「女子教育」のも関心を持ち、構想をめぐらしていたのであった。
教育者「吉田松陰」の面目躍如たる書簡である。
因みに慶応義塾の創立は安政5年であるから、この書簡はその1年後のことであるが福澤諭吉と吉田松陰が教育について語り合う機会が実現しなかったのが何とも残念である。
福澤も女子教育に熱心だったことは松陰と同様である。
次回は、有名な『父叔兄宛』を書きます。松陰の人間性がよく解る「別離の書簡」です。
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