富永有隣の帰省を送る叙 (丁巳幽室文稿) 安政四年九月十五日 二十八歳
安政四年九月十六日、吾が客富永有隣、将に母を南郡に帰省せんとす。同社の士十有一人、吾が松下塾に宿会して送別す。在学生中谷正亮.高杉暢夫方外の師許道、之れが袖領たり。自余の九人も下は秉燭の童子に至るまで、皆文武有志の士なり。是の日、塾徒東山に演銃す。童子皆これに従ひ、進退座作甚だ困しめども、燭下猶ほ首を集めて読誦し、声戸外に徹る。倦みしものは則ち仆臥すれども、而も三人は方且に深談蜜語し、時に急にして切なるものを講究す。暢夫首を揺り声を抗げて曰く、「天地と人と、皆気のみ。人苟も気を養はば、以て為すあるべし」と。正亮曰く、「君を楠公に致し、身を赤穂に処す、是れ可なり」と。
許道独り黙然として退座し、一語も出ださず。之れを叩けば則ち曰く、「吾が師新たに我れを戒むるに、詩を廃して書を読まんことを以てせらる、吾れ方に其の言を思ふなり」と。余、時に諸友と孫子を講じ、業適々卒はる、亦『知る者は言はず』の言に感ずるあり。然りと雖も黙々たるを得ざるものは時なり。南郡固より多士ありと称せらる。今有隣の母を省みるや、将に遂に其の人を見んとす。有隣其れ其の盛んなるを観て、其の雋なるを獲ば、庶幾はくは以て我が社を振ふあらんか。然れども人或いは謂ふ、「南郡の士、才富みて学貧しく、口弁にして識暗し、碁社簇りて文士阻み、酒徒群がりて武夫陥る」と。此の説果して然らば、吾れ望むことなし。秋深く月白し、露降り雁鳴く。慈母堂に在り、その有隣を待つや久し。有隣其れ此れより去れ。
解説
安政四年九月、松下村塾の賓師(客員教師)富永有隣が、母の元に帰省する時に贈った送叙である。有隣は嘉永五年、三十二歳の時見島(現山口県萩市)に流されて以来、今六年目にして母に逢う為の帰省である。本文の前段は有隣送別の日の模様を記しているが、よく松下村塾の雰囲気を伝えていると思われる。議論している者、それ聞いている者、読誦する者、また疲れて横になっている者、などなど各人各様であるが、「皆文武有志の士」である。本文後段において、有志の士が多いと言われている南部(帰省先の山口市陶は萩市からは南部に当たる)に帰る有隣に「雋」なる者を見出して来いと使命を与えている。なお、国木田独歩の「富岡先生」は有隣がモデルと謂われている。
用語解説
南部=周防国吉敷郡陶村。現山口市陶。 同社の士=松下村塾生。
宿会=泊りがけで会合を開く。 在学生=長州藩の藩校明倫館の在学生。
中谷正亮=一八三一―六二 松下村塾生。文久二年、藩命により江戸に赴き発病、客死。
高杉暢夫=高杉晋作。名は春風。暢夫は字。 方外=仏教。 許道=僧侶の名。不詳。
袖領=集団の指導者。幹部。中谷正亮、高杉晋作、許道の三人が送別会の主唱者だった。
自余=それ以外。 秉燭=手に燭台を持つこと。
文武有志の士=学問や武芸に志を持つ者。 演銃=砲術の演習を行うこと。
進退座作=立ち居振る舞い。 読誦=声を出して読む。
倦みしものは則ち仆臥すれども=勉強に飽きた者は、横になって休んでいるが。
深談密語=深く心の底から語り合うこと。
時に急にして身に切なるもの=急いでしなければならない務め。急務。時務。
講究=物事を深く調べ、究めること。
人苟も気を養はば、以て為すあるべし=仮に気力さえ十分に養いさえすれば、立派な事業を成し遂げる事ができよう。
君=藩主。 楠公=楠木正成。南北朝時代の武将。
赤穂=赤穂浪士。元禄十五年(一七○二)一二月、吉良義央を襲って、主君浅野長矩の仇を討った元赤穂藩士四七士のこと。
詩を廃して書を読まんこと=詩は『詩経』。書は『書経』。
余、時に諸友と孫子を講じ...卒はる=この前日(安政四年九月一四日)に、『孫子』の講義が終了した。「孫子評注」
知る者は言はず=知者は軽々しく語らない、の意。(『老子』下.『史記』の孫武.呉起列伝の論賛。
黙々たるを得ざるものは時なり=じっと黙っていなければならないのは、時勢がそうさせるのである。
雋なる=優秀な者。 吾が社=松下村塾。
才富みて学貧しく、口弁にして識暗し=才能は富んでいるが学問は浅く、口は上手いが識見が乏しい。
碁社=碁の仲間。 文士=学者。文人。 酒徒=酒飲み仲間
武夫=勇士。 堂=奥座敷。