杉蔵を送る叙  

(戌午幽室文稿)安政五年(一八五八)七月十一日 二十九歳

 

 

胥徒(しょと)杉蔵、飛脚(ひきゃく)を以て帰る。帰りて数日、(ふたた)(また)()(のぼ)る。杉蔵は胥徒(しょと)()を以て、慨然(がいぜん)として天下の事を(だん)ず、急遽(きゅうきょ)造次(ぞうじ)にも()()()()従ひ、議論(ぎろん)上下(じょうげ)し、娓々(びび)として()まず。其の志も(また)()なり。(しこう)して其の説も(また)(すこぶ)()れと(おなじ)うす、吾れ深く()れを喜ぶ。然れども是れ皆読書人の習気(しゅうき)、何ぞ(はなは)だしくは(とうと)ぶに()らん。吾れの(はなは)だ杉蔵に(とうと)ぶ所のものは、其の(うれ)ひの(せつ)なる、(さく)(よう)なる吾れの及ぶ(あた)はざるものあればなり。当今(とうこん)幕府(ばくふ)の心は、路人(ろじん)も知る所、諸侯の、府下(ふか)()りて其の(さく)為す()(また)(かた)し。(いわ)んや吾が世子(わ せいし)(ひと)府邸(ふてい)(とど)まり、待衛(じえい)番士(ばんし)(しも)銃槍(じゅうそう)軽卒(けいそつ)に及ぶまで、百人なる(あた)はず。一旦(いったん)(へん)起らば何を(もっ)()れに(しょ)せん。()れ誠に(うれ)ふべきなり。(しか)るに()えてこれを()ふるなし。()だ杉蔵のみ()(さく)(こぜ)(うれ)ふ。()()って()って(いわ)く、「士卒(しそつ)百人、独り浩流(こうりゅう)の中に立つ、(しず)まざれば(すなわ)(ただよ)はん。然れども天下の諸侯(しょこう)(また)正論(せいろん)の者あり、()(ひと)り我れのみならんや。忠孝(忠孝)節義(せつぎ)雄才(ゆうさい)大略(たいりゃく)の者とは、(ある)いは刀筆(とうひつ)(かく)れ、或いは技芸(ぎげい)(かく)れ、或いは市井(しせい)田野(でんや)の間に(かく)る、(また)独り(ひと)我れのみならんや。勅旨(ちょくし)(ほう)じ、胡塵(こじん)(きよ)む、吾が(こころざし)(ひと)たび(さだ)まりて、(しず)まず(ただよ)はざれば、其れ必ず来り(きた)(たす)くる者あらん。(しか)るを(いわ)んや吾れ()きて()れを(もと)むる、(いずくん)んぞ(おう)ぜざる者あらんや。(ひと)()して(てん)(くみ)す、百人(もと)より(もっ)千万人(せんまんにん)()べし、(すなわ)ち何ぞここに(かた)からん」と。杉蔵も(また)深く()れを(しか)りとす。余(すなわ)()げて(いわ)く、「当今(とうこん)江邸(こうてい)、長井は世子(せいし)番頭(ばんとう)たり、来島(きじま)大検使(だいけんし)たり、皆有志(ゆうし)()なり。(かつら)赤川(あかがわ)日下(くさか)無逸(むいつ)無窮(むきゅう)とは高下(こうげ)深浅(しんせん)各々(おのおの)(おのずか)ら同じからずと(いえど)も、(よう)(みな)知識(ちしき)あり、順逆(じゅんぎゃく)を知る。()れ皆杉蔵の熟知(じゅくち)する所なり。(しこう)して高杉(たかすぎ)尾寺(おでら)(また)東行(とうこう)(こころざし)あり。()つ聞く、近ごろ(こう)(てい)会約(かいやく)あり、(ひと)(つき)数次(すうじ)志士(しし)(そう)(ごう)し、各々(おのおの)其の聞知(ぶんち)する所を(つく)すと。(しか)らば(すなわ)ち何ぞ()(げん)()たん」と。()幽囚(ゆうしゅう)廃錮(はいこ)、為すある(あた)はずと(いえど)も、近ごろ(おん)()(こうむ)り、建言(けんげん)()まざるを(ゆる)さるるを()たれば、()(おもむ)ろに()して()れを奉らん。杉蔵()け。月白(つきしろ)(かぜ)(きよ)し、飄然(ひょうぜん)として馬に()りて、三百()(じゅう)数日(すうじつ)、酒も飲むべし、()()すべし。今日(こんにち)の事誠に急なり。然れども天下(てんか)大物(おおもの)なり、一朝(いっちょう)奮激(ふんげき)()く動かす所に(あら)ず、其れ()積誠(せきせい)()れを(うご)かし、(しか)(のち)(うご)くあるのみ。七月十一日

 

 

 

解 説

入江杉蔵二十二歳、飛脚として江戸から帰国した時、初めて松陰を訪ねている。本文は、その数日後再び江戸に向かって出立する際に贈った送叙である。この数日の間に松陰は、「吾れの甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂ひの切々なる、策の要なる吾れの及ぶ能はざるものあればなり」と杉蔵の本領を見抜いている。杉蔵は松陰に深く師事し、松陰の晩年には、思想や心情において最も身近にあって行動した人物である。本文末尾の「杉蔵往け。月白く風清し......」は名文として知られているが、それはただに美しい文章であるだけでなく、「天下は大物なり」と言い切って杉蔵の覚悟を新たにさせるとともに、彼に大きな期待を寄せていることで迫力と説得力を持っている。

 

用語解説

入江杉蔵 = 一八三七〜六四 長州藩足軽、のち士分。名は弘毅(こうき)、字は子遠(しえん)杉蔵(すぎぞう)は通称。村塾入塾は安政五年、十一月。その四ヶ月前の七月に江戸から飛脚として萩に使いした時、初めて松陰から教えを受けた。

胥徒(しょと) = 小役人。雑役夫。

飛脚 = 江戸時代、手紙などを運送した者。

() = 卑しい、取るに足らないの意で、ここでは身分が低いこと。

慨然(がいぜん) = 憤り、嘆くさま。

急遽(きゅうきょ)造次(ぞうじ) = にわかで、慌しい時。

上下し = 往復する。交わす。

娓々(びび)として()まず = 議論が続き、飽きることが無い。

読書人 = 知識人。

習気(しゅうき) = 習慣。

其の憂ひの切なる、策の要なる = 杉蔵の憂いが切実で、その策は要点をついている。

路人(ろじん) = 一般大衆。

世子(せいし) = 藩主毛利敬親の後継者、定広(後の元徳)

府邸(ふてい) = 江戸の長州藩邸。

待衛(じえい) = 藩主を護衛する者。

軽卒(けいそつ) = 身分の低い兵卒。足軽。

士卒(しそつ) = 武士と足軽。

造流(ぞうりゅう)の中に立つ = 広大な流れの中に立つ。

(あに)独り我れのみならんや = どうして、ただ私一人だけであろうか。

忠孝節義 = 主君に忠義を、父母に孝行を尽くすこと。

雄才(ゆうさい)大略(たいりゃく) = 優れた才能(雄才)と優れた計略(大略)

刀筆 = 古代中国で、竹簡(ちくかん)に文字をしるすために用いた筆と、その誤りを削るために用いた刀。転じて文書の記録、あるいは著述。

技芸 = 美術、工芸に関する技能。

市井(しせい)田野(でんや) = 俗世間。田舎。

胡塵(こじん)を清む = 異民族(外敵)を払いのける。

 

 

其れ寧んぞ応ぜざる者あらんや = どうして、応じない者があろうか。

人帰して天与す = 多くの人が慕い、寄ってくるし、天もまた味方してくれる。

江邸(こうてい) = 江戸の長州藩邸。

長井 = 一八一九〜六三 幕末の長州藩士。名は時庸(ときよし)雅楽(うた)は字。藩主の親任厚く(じき)目付(めつけ)に進む。文久元年、幕府の開国政策に対し、「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を建議し、主命を受けて江戸で公武周旋(しゅうせん)に当たったが建白書謗詞(ぼうし)事件のため失脚。帰萩(きしゅう)後、切腹を命じられた。

来島(きじま) = 一八一七〜六四 名は政久。長州藩士。安政二年、大検(だいけん)使役(しやく)。文久三年、下関で外艦(がいかん)砲撃戦の時、総督(そうとく)国司(くにし)信濃(しなの)の参謀を務める。元治元年、禁門(きんもん)の変に死す。

桂.赤川.日下(くさか)無逸(むいつ)無窮(むきゅう) = 桂小五郎.赤川淡水(あわみ).久坂玄瑞と吉田栄太郎.

松浦亀太郎

高下(こうげ)深浅(しんせん) = 身分の上下、学識の深浅。

順逆(じゅんぎゃく) = 道理に叶っているか否か。

高杉.尾寺 = 高杉晋作.尾寺新之充。

東行(とうこう) = 江戸へ赴くこと。

会約(かいやく) = 会合。

(ひと)月数次(つきすうじ) = 一ヶ月に数回。

湊合(そうごう) = 寄せ集める。

幽囚(ゆうしゅう)廃錮(はいこ) = 捕われて一室内に閉じ込められ、官吏の資格も剥ぎ取られている。

近ごろ恩旨を蒙り、建言(いみな)まざるを(いん)さるる = 藩主毛利敬親が安政五年(一八五八)六月一五日に江戸より帰萩し、松陰の認めた「狂夫の言」を見て、更に上書建言するように伝えられ、それを聞いて松陰が藩主の恩に感激した。

飄然(ひょうぜん) = ひらりと。

詩も()すべし = 漢詩もつくるがよい。

一朝(いっちょう) = わずかの間。

積誠(せきせい) = 真心のこもった行為を積み重ねること。


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