「煙管を折るの記」    

 

安政四年九月三日(丁巳幽室文稿:全集第四巻・116頁)  

 

この「煙管を折るの記」は松下村塾の塾風を知るのに格好の資料である。松下村塾の教育は大略、@個性の尊重とA集団学習とにその特色があるが、これはその学習集団たる塾の雰囲気を伝えるものである。

 

野山獄での同囚であった富永有隣を始め、他の塾生達と士風を語り合っているうちに、塾生の岸田多門のことに及んだとき、一緒にいた者が皆禁煙を誓い合っている。松陰が「一時の慷慨、終身の無聊を憂う」と心配すると、我々の言葉を信じないのかと反論がくる。そして松陰は謝るが、これを文末で「謹んで記す」との表現をしている。

松陰は喜んでいるのである。

 

翌朝、岸田にこの文を見せたら、泣いて反省している。高杉晋作や松浦松洞の態度も、この話に同感したもので、塾の雰囲気を伝えている。

こうした資料から見える塾風は、藩校などのお堅い雰囲気と異なり、「師弟同道」を願った松陰の主宰する塾の教育風景の一場面を垣間見る、ほのぼのとさせるものがある。

自由で、談論風発の香りが漂う「松下村塾」のある一場面である。

 

 

少し長くて、文も読みにくいが、全文を記してみる。

 

一日有隣と士風を論ず。無咎.無逸.市(之進).溝(三郎)皆、これに在り。夜深して灯燃え残る。談、岸田生の事に及ぶや、余の憂ひ色に現はれ、一座黙然たること之れを久しうす。無咎慨然として煙管を把って之れを折る、曰く「吾其れ此れより始めん」と。無逸と市.溝と声応じて管巳に分かたる。有隣曰く、「汝が輩審して能くかくの如し、吾安んぞ折らざるを得ん」と。因って余をして之れを折らしむ。余曰く、「煙は飲食の余事と雖も慣れては性となる。吾が性、煙を憎むこと甚だし、然れども諸君一時の忼慨、終身の無聊を致さんことを憂ふるなり」と。有隣二無憤然として、悦ばずしていわく、「子、吾が言を疑ひたまふか。今岸田生と市.溝と、年皆十四にして公然煙を噛むこと、長老先生にるなし、而して当今挙世皆然り。我が輩寧んぞ一岸田生の為めにして然らん。子尚吾が言を疑ひたまふか」と。余再拝して罪を謝して曰く、「諸君果して然らば、松下の邑、其れ此れより起らん。吾の憂ひ以て解くべきなり。吾其れ筆を提げて之れを記さん」と。丁巳九月三日夜、二十一回猛士謹んで記す。

 

明朝此の文を把、岸田生の為めに講解一番す。言未だ終らざるに、生府伏して涕泣し、時を過ぎて乃ち止む。生遂に一語なし。而して余も亦敢へて之れを責めず。後数日、生尽く煙具を以て其の親家に送致し、敢へて復た吸はず。其の書を読み、事を執るを観るに、精苦すること往日に過ぐ。蓋し諸君の意に感ぜしならん。高杉春風余の為めに、「吾年十六にして、便ち噛煙を好む、長者之れをむる者ありしも、而も従はざるきおと巳に三年なり。誤って再び煙具を路に遺つ。吾ここに於いて感ずる所あり、断然割去せり。是小事なりと雖も、顧へば亦難かりき。諸君の苦心は吾則ち之れを忖る」と。春風行年十九、鋭意激昂、学問最も勤、其の前途、余固より料り易からざるなり。因って併せて其の事を書し、以て諸君に示す。諸君其れ遼豕の笑ひとなるなかれ。

 

無咎の西より帰るや、勢風雨の如く、吾が党を圧して之れを上がんと欲す。直ちに吾が戸を排して入り、余に向かひて曰く、「大丈夫当に大事を立つべし、書を読みて何をか為す」。余曰く、「幽囚事なし、書を読まずん以て消遣するなし」と。無咎、言屈す。乃ち転じて有隣を攻めて曰く、「聞く、公煙管を折ると、煙管何公の事に害あり乃ち然るや」。有隣曰く、「亦一時の客気のみ」と。無咎以て難ずるなし、則ち亦管を折り曰く、「吾れも且に書を読まんと」と。巳に数日、無咎至る。因って共に語りて大笑し、吾れ之れを書して無逸に贈る。臘月念夜。

 

次回に、もう一つ「諸生に示す」という塾風を伝える資料があるので、それを紹介したい。

 

 

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