『東行前日記』@

 

東行前日記は松陰三十歳の夏即ち安政六年五月十四日に、幕府より江戸召喚の命が下ったことを聞き知ってから、同月二十五日に出發するに至る間の日々の漢詩文和歌を中心とし、諸所に漢文を以て記事を挿入した謂わば萩における訣別遺言に相當するものである。

松蔭自筆の原本は萩市松陰神社所藏の「東下雜集」と稱する一綴の最初に綴ぢこまれてある。「東下雜集」といふのは、この日記の他に東下前後に關係ある「縛吾集」「涙松集」「留魂録」「坐獄日録」「西洋歩兵論」が集められ、これに松陰江戸よりの書簡が加へられてあるが、その中で松陰自筆はこの日記のみである。題名はこの「東下雜集」巻尾の目次に他筆で「東行前日記」と書いてあるのみで、他に松陰自ら命名した跡も見えないから、恐らく後人の命名と思はれる。原本は半紙二ツ折形、原紙澁引表紙の見返しには「志」と題して自筆和歌三首がある。本文は五月二十四日の「飯田吉次郎に留別す」までが自筆で、それ以後は門人の追録である。

 

 

 

東行前日記

 

   志

 

かけまくも君の國だに安からば身を捨つるこそ賤がほいなり

 

五月雨の曇りに身をば埋むとも君の御ひかり月と晴れてよ

 

今更に言の葉草もなかりけり五月雨晴るる時をこそ待て

 

(※筆写註=以上、普及版全集176頁、東行前日記表紙裏の自筆和歌)

 

 

東行前日記

 

五月十四日  午後、家兄伯教至り、東行の事を報じて云はく、「長井雅樂、之れが為め故ら特に國に歸りしなり」と。薄暮、家兄復た至り、飯田正伯・高杉晋作・尾寺新之允連名の書っを致す。云はく、「幕府有志の官員佐々木信濃守・板倉周防守等、水府及び諸藩の正士の罪を寛くせんことを請ひ、聽かれず、是れに坐して罷免せらる。今先生幕逮を蒙る。願はくは身を以て國難に代り、且つ懇ろに公武を合體するの議を陳べられなば社稷の大幸なり」と。家兄の初め至りしときは事未だ確定せず。乃ち一絶を作る。

 

密使星馳事若何     密使星馳す事若何(こといかん)

人傳縛我向秦和     人は傳ふ我れを縛して秦に向って和すと。

武關一死寧無日     武關の一死、寧んぞ日なからんや、

何倣屈平投汨羅     何ぞ倣(ならわ)ん屈平汨羅(べきら)に投ずるに。

 

政府頗る余が幕訊に就き、事の國家に連及せんことを慮る。余、因って今春正月論建せし所の一條を書し、家兄に託して、之れを長井に致す、附するに一詩を以てす。

   東命執拘我れを致す、行くに期あり、詩もて親戚故舊に別る。謝枋得北行別の詩の韻による

幽囚六歳對燈青     幽囚六歳、燈青に對(むか)ふ、

此際復為關左行     此の際復た關左(かんさ)の行を為す。

枋得縦停旬日食     枋得縦(ほしいまま)に旬日の食を停め、

屈平寧事獨身清     屈平寧んぞ獨り身の清きを事とせしや。

邦家榮辱山如重     邦家の榮辱、山の如く重く、

軀穀存亡塵様輕     軀穀の存亡、塵様(ごと)く輕し。

萬巻於今無寸用     萬巻今に於て寸用なく、

裁嬴大義見分明     裁(わずか)に嬴(あます)大義見て分明なるを。

 

 

【註】

五月十四日 = 安政五年(1858

家兄伯教 = 兄の梅太郎(が、野山獄に来て江戸護送を知らせて)

長井雅樂 = 長州藩士。松陰は間部要撃策以降、彼と意見が合わず、東送の命を彼が持ち帰ったので、長井の謀と疑った。

正士 = 安政の大獄連累者のこと。

幕逮 = 幕府の手が身に及ぶこと。

社稷 = 國家

一絶 = 一言絶句

密使星馳す = 江戸から長井が非常に急いで帰藩した。

秦に向って和す = 長州藩が幕府に和従すること。

武關 = 秦と楚の国境にある関所。転じて江戸の意。

屈平 = 屈平の様に(汨羅に投身自殺)はしない。

幕訊 = 江戸評定所での幕府の訊問。

論建 = 松陰の提案(高島・大高來萩時の意見)。「愚按の趣」(己未文稿)参照。

東命執拘我れを致す = 幕命で私を逮捕する。

謝枋得 = 宋末の人。元の要求を拒み絶食死した。

燈青 = 燈下のもとで読書したこと。

關左 = 関東に行くこと。

屈平 = 屈平はどうして、自身の潔白さだけを考えて汨羅に入水したのか。

軀穀 = からだ。精神に對して云う。

裁嬴大義見分明 = 大義をはっきり見分ける事だけが漸く身についた。

 

 

十五日

   家兄及び徳民至る。徳民に託して書を子遠に致す。○䔥海來り問ふ、書き示すこと左の如し。

此の行、復び歸ること未だ期すべからず。平生吾れを愛せし者は公なり。公宜しく蓋棺(がいかん)の觀を為すべし。吾が知己尠からざるも、善く吾が文を不朽ならしむる者は、公に非ずんば人なし。文稿五巻、一貫生に附して之れを公に致す。公間(ひま)に乗じて瀏覧し、其の略ぼ讀むべきものを録存し、従って之れが敍を為(つく)れ。清人云はく「人の遺編斷簡を拾収するは、その功徳更に暴骨露骸を瘞埋(えいまい)するに倍す」と。今吾が骨は未だ何れの所に暴露するかを知らず、而れども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり。

夜、家兄・村士毅・思父・實甫相繼いで至る。

 

 

【註】

蓋棺の觀を為すべし = 死後の人物批評。

一貫生 = 高橋藤之進。福川司獄官の弟、松陰の教えを受けた。䔥海の弟子。

瀏覧 = 書物や文書に目を通すこと。人に見て貰う時に云う語。

敍 = 序文。

暴骨露骸を瘞埋するに倍す = 山野に晒されている死骸を手厚く葬ること。

村士毅・思父・實甫 = 小田村伊之助(妹婿)・品川彌二郎・久坂玄瑞

 

 


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