吉田松陰自賛肖像

 

(全集第九巻収載:東行前日記:543頁)

 

有名な松陰の肖像画が描かれた掛け軸である。松陰と云えば、この貌を思い浮かべる人が多いだろう。

安政六年(1859)五月、松陰に江戸送りの命令が下された。門下生「久坂玄瑞」の発議によって松浦松洞によって松陰の肖像を描かせたものに、松陰自身が「賛」を書いた。

 

現在七枚が残されている。最初の保持(贈り先宛名あり)した家に因んで@吉田家本A杉家本B品川家本C岡部家本D中谷家本E久坂家本F福川家は賛のみで跋なし。が描かれた。(中谷家本の「跋」に予人の為に此の賛を書す。凡そ七通。今すでに之れを厭う。賓卿(中谷正亮)復たもって見んことを迫る。嗚呼、賓卿我れにおいて最旧(の友)なり。それ辞すべけんや。将に之れを発せんとするの前夕(五月二十四日二十一回猛士寅書)と書かれているので、それがわかる。)因みに最初に書いた吉田家本が五月十六日であるから、九日かけて書いたことになる。

 

原文を下記する。

十六日 朝、肖像の自賛を創る。像は松洞の寫す所、これに賛するは士毅(小田村伊之助・松陰の妹婿)の言に従ふなり。

 

三分 盧を出づ、諸葛 已んぬるかな、

一身 洛に入る、賈彪 安くに在りや。

心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、

志は魯連を仰ぐも、 遂に難を釈くの才に乏し。

読書 功無し、 朴學三十年、

滅賊 計を失す、 猛気二十一回。

人は狂頑と譏り、 郷党 衆く容れず、

見は家國に許し、死生 吾久しく斉うせり。

至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず、

古人 及び難きも、聖賢 敢へて追陪せん。 

 

これを解釈すると、

天下三分の計を図り草廬から出仕したという、諸葛孔明はもはやこの世になく、

党禁を訴えるため、一身で都に入ったという、あの賈彪は何処にいるというのか。

私の心はあの壮士の貫高を師としているが、元来世間に立てる程の名声は無く、

私の志は斉の魯仲連を尊敬しているが、結局は難事を解決する才に乏しい。

読書もその効果がなく、学問に従って三十年になりながら、

外夷を滅ぼそうとの企ても失敗した ー 勇猛心を二十一回振り起そうとしたのに。

世の人は私を頑固者と非難して、邑人は多く私を受け容れてくれないが、

吾が命は國家に捧げており、死ぬにしろ、生きるにしろ忠誠を尽くす心にかわりはない。

至誠を尽くせば心を動かさない者は、古来一人もいないと、孟子は言ったが

諸葛孔明などの俊傑ほどには及ばないまでも、聖賢が求めたものを精一杯追慕したい。

 

 

以上が「賛」といわれるもので、画に題して画面中に書く詩・歌・文を云うが、自分で書いたので「自賛」となるのである。(以上、吉田松陰撰集より抜粋)

 

有名なこの松陰の画像の上に書かれている文であるが、この「賛」のほかに「跋」が書かれている。これは、贈る人物を想定した文言で、松陰の自賛画像には右側に「賛」が書かれ、七通ともほぼ同文である。しかし、「跋」は上記のように、個人的な「贈り言葉」が書かれているので、それぞれ文が異なるのである。

 


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