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吉田松陰の青年期(脱藩・下田踏海)
21歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、遊学許可が下りることになった松陰。嘉永3年(1850年)8月、松陰は見聞を広め自分を高めるべく九州遊学の旅に出た。
平戸、長崎、熊本と旅を続け、山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵など様々な人物に会い見識を深めていった。中でも熊本藩の名士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)とは、国の防衛などについて意気投合。宮部は、松陰より10歳以上年上であったが、生涯の親友となった(後の江戸遊学時に再会、東北旅行にも同行した。宮部鼎蔵は松陰死後、勤皇の大物志士として京都で活躍したが、池田屋事件で新撰組に急襲され自刃した)。
嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行して江戸にも遊学。佐久間象山に出会う。同年12月には、宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画するが、なかなか藩からの関所通過書(身分証明書)が届かない。「友との約束は破れない」という一点において、松陰は当時重罪であった脱藩を実行する。
脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸(茨城)、会津(福島)、弘前(青森)などを訪れ視察。江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。脱藩の罪により藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下におかれることとなった松陰であるが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。そして、2度目の江戸遊学へ。佐久間象山に師事する。
江戸での遊学中、嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航(いわゆる黒船来航)。浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚える。西洋列強各国から日本を守るためには西洋先進国を知ることである。松陰は、海外渡航を決心した。
ペリーが去ってから一ヶ月後、プチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かったが、着いたときには艦隊は出航した後だった。再び江戸にもどった松陰はそれでも密航をあきらめない。
嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる(松陰個人と師弟関係を結んだのは、この金子重之助が一番最初ということになる)。
松陰と金子重輔はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗。最後には、下田に移動したペリーの船に、夜間、小舟をこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶。松陰の密航計画はまたしても失敗した。
松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される(その後、金子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で25歳という若さで病死、松陰は金子の死を深く嘆き悲しんだ)。
野山獄に投獄された松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始める。これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。また、後に松下村塾の助教授となる富永有隣とも野山獄で出会った。吉田松陰の教えの原点は、牢獄の中にあったと言えるかもしれない。

松陰が投獄された野山獄(武士の身分の者が入れられた)
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