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松下村塾付近にある「明治維新胎動之地」と書かれた石碑

史跡・松下村塾付近(山口県萩市・松陰神社)にある
「明治維新胎動之地」と大書された石碑。
松陰の主宰した松下村塾は、まさに明治維新の源流となった。
(揮毫は、山口県出身の内閣総理大臣・佐藤栄作によるもの)

【兄・梅太郎と兄・松陰】

 私の兄の松陰は、幼いころから「遊び」ということを、まるで知らないような子供でした。同じ年ごろの子供たちと一緒になって、凧をあげるとか、コマを回すとか・・・・・・そんな遊びに夢中になったことなど、まったくありません。いつも、机に向かって漢籍を読んでいるか、筆を執っているかで、それ以外の姿は、あまり思い浮かびません。それでは、せめて運動とか、散歩とか、そのぐらいはしていたのか・・・・・・と申しますと、それも、きわめてまれで・・・・・・、少なくとも私の記憶に残っているものはありません。
 学問の方ですが、とくに「寺子屋」とか「手習い場」とか、そういうところには通っていません。ただ、父(杉百合之助)とか、叔父(玉木文之進)について、学んでいただけです。ある時期には、昼も夜も、叔父の所に通って教えを受けていました。叔父の家は、わずか数百歩くらいしか離れていなかったので、三度の食事の時には、家に帰ってくるのが、ふつうでした。
 そのころ、長男の梅太郎(民治)と、松陰は、見る者がうらやましくなるほどに、仲のよい兄弟で、家を出るのもいっしょ・・・・・・帰るのもいっしょ・・・・・・というぐあいで、寝るときは一つの布団に入りますし、食事の時は、一つのお膳で食べておりました。たまに別のお膳で食事を出すと、わざわざ、一つの膳に並べかえていたほど、仲がよかったのです。
 影が形に添うように・・・・・・と申しましょうか、松陰は、梅太郎に、よくしたがい、梅太郎の言いつけに逆らうようなことなだ、一度もありませんでした。梅太郎は、松陰より二歳上で、私は、松陰より、二歳下です。そういうことで、歳があまり離れていないせいでしょうか・・・・・・、兄弟のなかでも、私たち三人は、とくに仲がよかったのです。松陰も亡くなる前は、三人がたがいに語り合い、励まし合った少年のころの思い出を、よく手紙に書いてくれたものでした。



【嗜好品はなく、女性も知らず】

 兄は、好んで酒を飲むということはなく、タバコも吸わず、いたって真面目な人でした。松下村塾を主宰していたころのことです。ある日、門人のなかにタバコを吸う方がいたので、それを注意して、「キセルをもっている者は、全員、それを私の前に出しなさい」と言い、それをコヨリで結んでつなぎ、天井からつるしていたことがあります。
 もとより酒は口にしません。それでは、甘いものはどうか、たとえば餅などを好むなどということはなかったのか・・・・・・ということですが、私には、よくわかりません。特別にこれが好物だった≠ニいうものをあげてほしい、と言われても、何も思い浮かびません。兄は、いつも大食することを、自分で戒めていました。ですから、今の人たちのように、特別に「食後の運動」などを心がけなくても、異を害したり、調を痛めたりするようなことは、ありませんでした。
 ご存じの通り、兄の人生はわずか三十年です。短いと言えば、たしかに短い人生なのですが、三十歳と言えば、そのころの世間一般からすれば、妻をむかえ、家庭をもつべき年齢でした。けれども、兄は、青年になってから、ずっと全国各地を旅してまわっていましたし、国にいる時は、お咎めを受けた身の上で、家で謹慎するよう申しつけられておりましたから、妻をもつという話など、どこからも出てくるはずがありません。それでも、親戚のなかには、「罪人という身の上だから、表向きは、たしかに妻を娶るわけにはいかないが、せめて身の回りの世話をする女性ぐらいは、近づけてはどうか」などと言ってくる者もいたようです。
 親切心から、そう言ってくださったものと思いますが、それは、兄の心のうちを知らない人の言葉ですから、家族の者で、そのことを兄に、面と向かって言った者など、だれもいません。兄は、生涯、女性と関係をもつことはありませんでした。



【玉木叔父の教育】

 兄が子供のころ、父や叔父のもとで学問をしていたことは、すでに申し上げましたが、父も伯父も、とても厳格な人でしたので、小さな子供に何もそこまでしなくても・・・・・・と思われるようなことが、しばしばありました。母などは、そのようすをそばで見ていて、そこは女のことですから、さすがに心が痛んで、見るにしのびないこともあったようで、「座っていないで、早く立ち上がって、どこかへ行ってしまえば、こんなにつらい思いをしなくてもすむものを・・・・・・、なぜ寅次郎(松浦注・松陰の通称)は、ぐずぐずしているのか」と、はがゆく思ったこともあったそうです。
 そのように兄は、とても従順で、ただただ言われたことを、言われたとおりにやるような人でした。それどころか、「自分は言われたことを、言われたとおりに、なしとげることができないのではないか」と、そのことだけを、いつも心配しているような・・・・・・、そんな人だったのです。
 けれども、外から見たら、そのように柔らかな兄も、内には、なかなか剛いところがあったものと見えます。子供のころの兄を知っている人たちは、のちに【少年の時から、腕白なところがあったから、あれほど大胆なことを企てたのであろう】などと、語り合っていました。



【人との交際の様子】

 兄の顔には、アバタがありました。お世辞なども、わざと言わないような人でしたから、一見すると、とても無愛想な人のように思われるのですが、一度、二度と、話をする機会をもった人は、不思議なことに大人も子供も、みな兄を慕うようになり、なついてしまうのです。兄も、相手に応じて、お話をするようにしておりましたし、また、来客の相手をすることは、好きだったようです。
お客さまと話をしているうちに食事時になることがあります。そんな時は、かならずご飯を出すようにしておりました。来てくださったお客さまに、お腹がすいたのをガマンさせながら、話をつづけるようなことは、けっしていたしませんでした。「よい料理がないから・・・・・・」「おいしいオカズがないから・・・・・・」などという理由で、食事時になっているのに食事を勧めない、などということはありませんでした。
 兄は、ありあわせのものだけでもお出しして、気持ちよく、お客さまといっしょに、箸をもつのが楽しかったのだと思います。ときどき、こちらの方から声をおかけして、お客さまを呼ぶこともありましたが、兄は、珍しい食べ物を少し用意するよりも、粗末な食べ物でも、たくさん出すことが好きでした。



【正直すぎる人】


 正直といえば、だれでも「大切なことだ」と考えるものですが、兄は、その思いが、ふつうではありませんでした。「人のため、人のため・・・・・・」と、いつも、そんなことばかりを考えていました。
 兄が「人のため」を考え、きわめて人に親切であったのは、たぶんうまれついてものだったのでしょう。林真人先生のお宅に泊まり込んで学問をしていた時のことですが、こんな話があります。
 ある晩、先生のお宅が火事になりました。すると兄は、その家の荷物を運び出すために、命がけではたらいたのですが、自分のものは身近なものさえ持ち出さなかったのです。
 なかには大切な記念の品もあったようですが、すべてを灰にしてしまいました。とうとう最後は、ただ寝巻きを身に着けているだけ・・・・・・というありさまだったそうです。
 あとで、ある人が「なぜ、そんなことになったのか?」と聞いたそうですが、その時、兄は、こう答えたそうです。

 「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、いろいろと大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものです。けれども、考えてみれば、いずれもたいしたものではありません」

 私の兄が行ったことは、ほんとうにいろいろとありますが、要するに、すべては、そういう性格をもとにして行ったことなのです。



【夢の報せ】

 兄が、「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」という歌を詠んで死去した日・・・・・・、その命日が、また今年もやってきます。思い返すと五十年も昔のことになりますが、あのころ、わたしの実家は、たとえようもないほど、悲惨な状態でした。
 兄は、遠い江戸に送られて、獄舎のなかにいました。それだけでも、憂鬱なことでしたのに、そのころ長男の梅太郎と、松陰の弟の敏三郎は、枕を並べて、病の床にあったのです。
 母は、片時も敏三郎のそばを離れず、父も、家族の看病で疲れきっておりました。しばらくして二人の病が、少しばかり快方に向かった時のことです。
 父も母も、疲れきっていたので、看病しながら、そのそばで仮眠をとっていたのですが、同時に目が覚めてしまいました。そして、母は父に、こう申したのです。

 「私は今、とても妙な夢を見ました。寅次郎が、とてもよい血色で、そう・・・・・・昔、九州の遊学から帰ってきた時よりも、もっと元気な姿で帰ってきたのです。『あら、うれしいこと、珍しいこと・・・・・・』と声をかけようとしましたら、突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だとわかったのです。」

 またその時、父は母に、こう申したそうです。

 「じつは私も今、夢を見ていたんだよ。私は、なぜそんなことになったのかはわからないのだけれど・・・・・・、首を斬り落とされてね。それなのに、どういうわけだか・・・・・・、とても心地がいいのだよ。『首を斬り落とされるというのは、こんなに愉快なことだったのか』と思って、感心していたら、目が覚めたんだ」

 その時、両親は、たがいに奇妙な夢を見たものだ・・・・・・と語り合い、「もしかしたら寅次郎の身に何かあったのではないか」と心配したそうですが、「まさか、そんなことはなかろう」とも思っていたようです。しかし、それから二十日あまりもたって、江戸から使いがきます。兄が「刑場の露と消えた」という報せでした。
 その報せを受けて、両親は先日の夢を思い出しました。そして、指を折って数えてみれば、日も時も、兄の最期の時刻と、寸分もたがわないことがわかったのです。
 母は、それから、さらに昔のことを思い出して、こう申しました。

 「寅次郎が、『野山獄』から江戸に送られる時のこと・・・・・・、忘れもしない五月二十四日の晩のことだったけど、一日だけ家に帰る許しをえて、家に帰ってきたことがあるんだよ。その時は、家を訪ねてくる人が、ずいぶんいたのだけれども、私は、寅次郎が湯を使っている風呂場のそばに、そっと行って、そのようすを見ながら、二人だけで心のうちを語り合ってね。
 その時、私が『もう一度、江戸からかえってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ』と言うと、寅次郎は、『お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、きっと元気な姿で帰ってきて、お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから・・・・・・』と言ったのだけれど・・・・・・、たぶん寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、たぶん、本当にそうなのだろうと、私は思っているよ」

 父も、先の夢を自分なりに解釈して、こう申しました。

 「夢のなかで私が、首を斬られながら『心地よい』と感じたのは、おそらく寅次郎が刑場の露と消える時、『自分には何も心残りはありません』ということを、私の伝えたかったのだろうな」

 永久に生きて帰ることのない旅路の第一歩として、兄が今の東京に行く時、たぶん兄自身は、生きてふたたび萩の地を踏むことはできまい、と覚悟していたと思います。けれども、私たち家族は、兄には何も罪がないことを知っておりましたから、かならず許されて、帰ってくるものと信じていたのです。



【兄の手紙を見ながら】

 この手紙を前にすると、お恥ずかしいことばかりです。この手紙について、人さまにお話しするとなると、私は、ほんとうに顔を伏せたいような気持になります。
 お読みいただければ、おわかりになりますとおり、文面は情愛に満ちているだけではなく、こういうところまで書いてくださったか・・・・・・≠ニ思われるほどに、細やかなことまで注意してくれています。それにもかかわらず、私は、兄の厚い愛情に応えることのできないまま生きてきて、何と申してよいかわかりません。
 このように兄の手紙を貼り付けて、本にしているのは、兄が最期をとげた翌年、梅太郎が、松陰からの手紙がバラバラになってしまうのではないかと心配し、注意してくれたので、こうしているのです。私はそのあとも、ことあるごとに、この手紙を開いて読み、自分を戒めてまいりました。
 読んでいると、兄の深い情愛に心が動かされ、いつも涙を禁じることができません。ここにいる私の娘や、その姉は、子供のころ、この本がどんなものだかわからないので、たぶん不思議に思ったのでしょう・・・・・・、「母上は、その本を御覧になると、いつもお泣きになりますのね」などと、私にその涙のわけを聞いてきたものです。
 この他に、手紙というわけではないですが、私から送った手紙の端っこに、兄が「お前はそういうが、それはこういうことだよ」などと書き添えて返してくれたものが、たくさんあります。そのなかで、忘れられないものがあります。
 まず私が、こう書いたのです。

 「お兄さまに誠の心があるのは、はっきりしています。罪もないのに罪人にされることはございません。なにとぞ、そのお心のほどを、上の方々に打ち明けてくださり、早く赦されて、帰っていらっしゃる日を、私はお待ちしております」

 すると兄は、その手紙の余白に、自分の思うことを書いてくれたのです。
 兄が書き込みをしてくれた私の手紙は、兄が江戸に送られる前日、家に帰ってきた時に、すべてもってきて、私に渡してくれました。それらの手紙は、小さな引出しに入れておいたのですが、長い歳月の間に、どこかへ行ってしまいました。今になると、よくよく気をつけて保存しておくべきであった・・・・・・と、くやしく思うのですが、もう、しかたがありません。
 兄は、いつも妹の私たちを戒めて、こう言っておりました。

 「心さえ清ければ、もう・・・・・・それでいいのだよ。貧しいのに豊かなように見せかけたり、破れたものをムリに破れていないように見せかけようとしたりするような・・・・・・、そういう心はよくないね。女性たる者・・・・・・、そういうところを、よくよく心得ておかなければならないよ」
 私には、そう言ってくれた兄の声が、今も耳の底に響いているような・・・・・・、そんな気がしてなりません。


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