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吉田松陰一問一答







京都大学所蔵の吉田松陰像
京都大学所蔵の吉田松陰像。
この像の顔が生前の松陰の顔に一番似ているといわれている。




「吉田松陰ってそもそも何をした人?」といった疑問から、「二十一回猛士の号の由来は?」などといったちょっとマニアックな質問まで、吉田松陰に関する素朴な疑問を一問一答形式でお答えします。

【吉田松陰って何をした人?】

幕末の長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者とされています。私塾・松下村塾の主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てました。自身も行動する

幼時の名字は杉。幼名は杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称は吉田寅次郎。字は義卿、号は松蔭の他、二十一回猛士など。

文政13年(1830年)8月、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれる。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。



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