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家族から見た吉田松陰

明治41年に発行された「日本乃日本人 臨時増刊 吉田松陰特集号」
明治41年に発行された「日本及日本人 臨時増刊 吉田松陰特集号」
同雑誌には、松陰の妹のインタビュー記事の他に門下生・野村靖や乃木希典大将が松陰について寄稿している文章など興味深い記事が沢山掲載されている。山口県の出版社・マツノ書店より限定復刊されており、現在でも入手することが出来る。


【門下生から見た吉田松陰】

門下生・野村靖(神奈川県令、逓信大臣、枢密顧問官などを歴任、留魂録を沼崎吉五郎から受け取った人物)は、この雑誌のなかで「吉田松陰先生の真髄」という談話を寄せており、その中で「松陰先生の事を話すと言っても、先生の真髄を得るように語ることは、到底できないことである。まして、先生の精神・面目を人に知らせようなどということは絶対に不可能といってもよい」「先生もまた、伝記その他のものによって己の精神を知られることは好まぬであろう。むしろ、自分の手で書いた議論・文章・詩歌・随筆などの類によって自分の精神・面目が彷彿とされることを喜ばれるだろうと思われる」「先生の精神・面目を知ろうと欲するならば、私の話を聞くよりも先生の至誠の凝縮とも言うべき、先生の著書、幽囚録以下を熟読することが必要である」「先生は、真に国家の士、すなわち日本国の士であって、主として国を外国に対して憂いたのである。その結果として勤王を唱えるに至った訳で、勤王よりして、国家を憂いたのではない。もとより航海雄略の人にして、鎖国攘夷の人ではなかった」などと語っている。



また、乃木希典は、「吉田松陰先生の薫化」という文章のなかで、「私は直接松陰先生より、ご教授を受けたことはなくまた御面会する機会も得られなかったため、先生のご行動その他においてはあまり多く語るべきことを持たないが、その教訓、その感化は、間接とはいえ深く私の骨髄に浸潤して、幼少よりこの年に至るまで、在住坐臥、常に先生の教訓に背かないようしている」「私の受けた先生の薫化は、皆間接的であるが、玉木先生(文之進※松陰の叔父)と玉木先生のご夫人から、一挙一動に至るまで松陰先生を模範として訓戒されたので、実に忘れられないものがたくさんある。なかでも、松陰先生は非常に勤勉家であったそうで、玉木先生は常に“寅次郎(松陰)の半分勉強すれば大丈夫だ”と言っていた」などと寄稿している。乃木は、松陰に直接学んだわけではないが、中岡慎太郎などと同様、松陰を尊敬し行動の規範としており、実質的な門下生といってもよいだろう。



吉田松陰の妹・千代
吉田松陰の妹・千代
松陰には6人の兄弟妹(民治、松陰、千代、濤子、美和子、敏三郎、艶子の順)がいた。下級武士であった杉家(松陰の実家)の生活は苦しいものであったが、家族仲はよく、厳しくも愛情豊かに育てられた。千代は松陰より2歳年下の妹であった。

吉田松陰の兄・杉 民治
吉田松陰の兄・杉 民治(梅太郎)
松陰より2歳年上の兄・民治(梅太郎)。松陰と民治は、とても仲の良い兄弟であった。民治は、明治43年88歳で死去するまで明治の世を生き抜いた。

吉田松陰の弟・敏三郎
吉田松陰の弟・杉 敏三郎
容貌が松陰と最も似ていたという弟・敏三郎。敏三郎は生まれながらにして耳が不自由であった。そんな弟を松陰はいつも気遣っており、旅先や獄中から弟を案じる松陰の手紙が幾通も遺されている。

吉田松陰の母・杉 瀧子
吉田松陰の母・杉 瀧子
松陰を愛情豊かに育てた母・瀧子。「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」。江戸で罪人として処刑が決まった松陰が郷里の両親に宛てた有名な句であるが、松陰の母に対する愛情とともに、母・瀧子の松陰に注いだ愛情までもが伝わってくる句である。

吉田松陰像
京都大学所蔵の吉田松陰像。
この像の顔が生前の松陰の顔に一番似ているといわれている。

吉田松陰の誕生地(生家跡地)
吉田松陰の誕生地(生家跡地)




明治41年発行の雑誌「日本及日本人」の臨時増刊として吉田松陰の特集が組まれており、そのなかに「松陰先生の令妹を訪ふ」と題して、松陰の妹・千代(当時77歳)に、生前の松陰についてインタビューした記事が掲載されています。松陰の人となりが伝わってくる、とても興味深い記事です。ここでは、「家族から見た吉田松陰」と題して、同雑誌のインタビュー記事の現代語訳を掲載します(一部割愛あり)。


【千代さんは「70余年前の昔が偲ばれ、私も子供の時に帰るようです」と言って、さも昔を懐かしむように話し出された】

 『兄・松陰は、幼いころから「遊び」ということを知らないような子供でした。同じ年ごろの子供たちと一緒になって、凧をあげるとか、コマを回すとか、遊びに夢中になったことなどはまったくなく、いつも、机に向かって漢籍を読んでいるか、筆を執っているかで、それ以外の姿は、あまり思い浮かびません。運動とか、散歩とかはしていたのかと言いますと、それも極めて稀で、私の記憶に残っているものはありません。
 また、「寺子屋」とか「手習い場」とかに通ってもおらず、父(杉百合之助)と、叔父(玉木文之進)について、学んでいただけでした。ある時期には、昼も夜も、叔父の所に通って教えを受けていました。叔父の家は、わずか数百歩くらいしか離れていなかったので、三度の食事の時には、家に帰ってくるのが常でした。

 そのころ、長兄の梅太郎(のちの民治)と、松陰は、見る者が羨ましくなるほどに仲のよい兄弟でした。出かけるときも、帰るときも一緒で、寝るときは一つの布団に入りますし、食事の時は、一つのお膳で食べておりました。たまに別のお膳で食事を出すと、一つの膳に並べかえていたほどでした。
 影が形に添うように、松陰は長兄・梅太郎にしたがい、梅太郎の言いつけに逆らうようなことなどありませんでした。梅太郎は、松陰より二歳上で、私は、松陰より、二歳下です。そういうことで、歳があまり離れていないせいでしょうか、兄弟のなかでも、私たち三人は、とくに仲がよかったのです。兄・松陰も亡くなる前は、三人がたがいに語り合い、励まし合った幼少のころの思い出を、しばしば手紙に書いてくれたものでした』

【松陰先生は読書の他に、これといった趣味を持たず、ましてや酒や女性に手を出すようなことは全くなかったという】

 『兄・松陰は、好んで酒を飲むということはなく、煙草も吸わず、いたって謹直な人でした。松下村塾を主宰していたころのことです。ある日、門人のなかに煙管を吸う方がいたので、それを注意して、煙管をもっている者は、自分の前に出させ、松陰はそれを紙で結んでつなぎ、天井から吊るしていたことがあります。
 もとより酒は口にしなかったので、甘いもの、餅などを好むなどということはなかったのか、ということですが、私には、よくわかりません。特別にこれが好物だった≠ニいうものをあげてほしい、と言われても、思い浮かびません。兄は、いつも大食することを、自分で戒めていました。ですから、今の人たちのように、特別に「食後の運動」などを心がけなくても、胃を害したり、腸を痛めたりするようなことは、ありませんでした。

 兄の生涯はわずか三十年で、短いと言えば、たしかに短い生涯なのですが、三十歳と言えば、そのころの世間一般からすれば、妻をむかえ、家庭をもつべき年齢でした。けれども、兄は、青年になってから、ずっと全国各地を旅してまわっていましたし、国にいる時は、お咎めを受けた身の上で、家で謹慎するよう申しつけられてもおりましたから、妻をもつという話など、どこからも出てくるはずがありません。「罪人という身の上だから、表向きは、たしかに妻を娶るわけにはいかないが、せめて身の回りの世話をする女性ぐらいは、近づけてはどうか」などと、親戚に言ってくる方もいたようですが、親切心から、そう言ってくださったものと思いますが、それは、兄の心のうちを知らない人の言葉ですから、そのことを兄に、面と向かって言った者はいませんでした。兄は、生涯、女性と関係をもつことはありませんでした』

【松陰先生が幼少の頃】

 『兄が子供のころ、父や叔父のもとで学問をしていましたが、父も伯父も、極めて厳格な人でしたので、小さな子供に何もそこまでしなくても、と思われるようなことが、しばしばありました。母などは、その様子をそばで見ていて、そこは母親ですから、見るにしのびないこともあったようで、「早く立ち上がって、どこかへ行ってしまえば、こんなにつらい思いをしなくてもすむものを、なぜ寅次郎(松陰の通称)は、ぐずぐずしているのか」と、はがゆく思ったこともあったそうです。
 そのように兄は、とても従順で、ただただ言われたことを、言われたとおりにやるような人でした。それどころか、「自分は言われたことを、言われたとおりに、なしとげることができないのではないか」と、そのことだけを、いつも心配しているような、そんな人だったのです。
 けれども、外から見たら、そのように柔らかな兄も、内には、なかなか剛いところがあったものと見えます。子供のころの兄を知っている人たちは、のちに「少年の時から、腕白なところがあったから、あれほど大胆なことを企てたのであろう」などと、語り合っていました』

【松陰先生は客を遇するのを好んだ】

 『兄の顔には、アバタがありました。お世辞なども言わないような人でしたから、一見すると、とても無愛想な人のように思われるのですが、一度、二度と、話をする機会をもった人は、大人も子供も、みな兄を慕うようになり、なついて、兄も、相手に応じて、お話をするようにしておりました。また、好んでお客の相手をしておりました。
来客の際、ご飯時には、必ずご飯を出すようにしておりましたし、お客さまに、お腹がすいたのを我慢させながら、話をつづけるようなことは、決していたしませんでした。「よい料理がないから」などという理由で、食事時になっているのに食事を勧めない、などということはありませんでした。
 兄は、ありあわせのものだけでもお出しして、気持ちよく、お客さまといっしょに、箸を共にするのを楽しんでおりました。ときどき、こちらの方から声をおかけして、お客さまを呼ぶこともありましたが、兄は、珍しい食べ物を少し用意するよりも、粗末な食べ物でも、たくさん出すことが好きでした』

【松陰先生に関する逸話】

 『兄は、正直を重んずるその思いが、尋常ではありませんでした。「人のため、人のため」と、いつも、そんなことばかりを心がけていたようでした。
 兄が「人のため」を考え、きわめて人に親切であったのは、たぶんうまれついての天性のものだったのでしょう。林真人先生のお宅に泊まり込んで学問をしていた時、こんな事がありました。
 ある晩、先生のお宅が火事になりました。すると兄は、その家の荷物を運び出すために、懸命に働いたのですが、自分のものは身近なものさえ持ち出さなかったのです。
 なかには大切な記念の品もあったようですが、すべてを灰にしてしまいました。最後は、ただ寝巻きを身に着けているだけ、というありさまだったそうです。
 あとで、ある人が「なぜ、そんなことになったのか?」と兄に聞いたそうですが、その時、兄はこう答えたそうです。
 「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、いろいろと大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません」
 兄が行ったことは、すべてこういう調子なのです』

【「夢のお告げ」と「虫の知らせ」】

 『兄が、「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」という歌を詠んで死去した日、その命日が、また今年も近くなってきました。思い返すと五十年も昔のことになりますが、あのころ、わたしの実家は、たとえようもないほど、悲惨な状態でした。
 兄は、遠い江戸に送られて、獄舎のなかにいました。それだけでも、憂鬱なことでしたのに、そのころ長男の梅太郎と、松陰の弟の敏三郎は、枕を並べて、病の床にあったのです。
 母は、片時も敏三郎のそばを離れず、父も、家族の看病で疲れきっておりました。しばらくして二人の病が、少しばかり快方に向かった時のことです。
 父も母も、疲れきっていたので、看病しながら、そのそばで仮眠をとっていたのですが、すぐに目が覚めてしまいました。そして、母は父に、こう申したのです。

 「今、とても妙な夢を見ました。寅次郎が、とてもよい血色で、昔に九州の遊学から帰ってきた時よりも、もっと元気な姿で帰ってきたのです。『あら、うれしいこと、珍しいこと』と声をかけようとしましたら、突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だとわかったのです」

 その時、父は母に、こう申したそうです。
 「私も今、夢を見ていて夢から醒めたんだよ。なぜそんなことになったのかはわからないのだけれど、夢のなかで、自分の首を斬り落とされてね。それなのに、とても心地がよかったのだよ。『首を斬り落とされるというのは、こんなに愉快なことだったのか』と思っていたよ」と。

 その時、両親は、たがいに奇妙な夢を見たものだと語り合い、「もしかしたら寅次郎の身に何かあったのではないか」と心配したそうですが、「まさか、そんなことはなかろう」とも思ったようです。しかし、それから二十日あまりもたって、江戸から使いがきます。兄が「刑場の露と消えた」という報せでした。
 その報せを受けて、両親は先日の夢を思い出しました。そして、指を折って数えてみれば、日も時も、兄の最期の時刻と、寸分もたがわないことがわかったのです。

 母は、それから、さらに昔のことを思い出して、こう申しました。
 「寅次郎が、野山獄から江戸に送られる時、忘れもしない五月二十四日。一日だけ家に帰る許しをえて、家に帰ってきたことがあるんだよ。その時、私は、寅次郎が湯を使っている風呂場のそばに、そっと行って、そのようすを見ながら、二人だけで心のうちを語り合ってね。
 その時、私が『もう一度、江戸からかえってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ』と言うと、寅次郎は、『お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、必ず元気な姿で帰ってきて、お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから』と言ったのだけれど、きっと寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、そうに違いないと、私は思っているよ」と。

 父も、先の夢を自分なりに解釈して、こう申しました。
 「夢のなかで私が、首を斬られながら『心地よい』と感じたのは、おそらく寅次郎が刑場の露と消える時、『自分には何も心残りはありません』ということを、私の伝えたかったのだろうな」

 永久に生きて帰ることのない旅路の第一歩として、兄が今の東京に行く時、たぶん兄自身は、生きてふたたび萩の地を踏むことはできまい、と覚悟していたと思います。けれども、私たち家族は、兄には何も罪がないことを知っておりましたから、かならず許されて、帰ってくるものと信じていたのです』

【兄の書簡集】

 『この兄の手紙を前にすると、慙愧の念に堪えず、この手紙について、人さまにお話しするとなると、私は、ほんとうに顔を伏せたいような気持になります。
 御覧いただければ、おわかりになりますとおり、文面は情愛に満ちているだけではなく、ここまで書いてくださったか≠ニ思われるほどに、細やかなことまで注意してくれています。それにもかかわらず、私は、兄の厚情に応えることのできないまま生きてきて、何と申してよいかわかりません。
 このように兄の手紙を貼り付けて、本にしているのは、兄が最期をとげた翌年、長兄の梅太郎が、松陰からの手紙がバラバラになってしまうのではないかと心配し、注意してくれたので、こうしているのです。私はそのあとも、ことあるごとに、この手紙を開いて読み、自分を戒めてまいりました。
 読んでいると、兄の深い情愛に心が動かされ、いつも涙を禁じることができません。ここにいる私の娘や、その姉は、子供のころ、この本がどんなものだかわからないので、「母上は、その本を御覧になると、いつもお泣きになりますのね」などと、私にその涙のわけを聞いてきたものです。
 この他に、手紙というわけではないですが、私から送った手紙の端っこに、兄が「お前はそういうが、それはこういうことだよ」などと書き添えて返してくれたものが、たくさんありました。そのなかで、忘れられないものがあります。
 まず私が、こう書いたのです。

 「お兄さまに誠があるのは、はっきりしています。罪もないのに罪人にされることはございません。なにとぞ、そのお心のほどを、上の方々に打ち明けてくださり、早く赦されて、帰られる日をお待ちしております」

 すると兄は、その手紙の余白に、自分の思うことを書いてくれたのです。
 兄が書き込みをしてくれた私の手紙は、兄が江戸に送られる前日、家に帰ってきた時に、すべて持ってきて、私に渡してくれました。それらの手紙は、小さな引出しに入れておいたのですが、長い歳月の間に、どこかへ行ってしまいました。今になると、深く気をつけて保存しておくべきであったと、くやしく思うのですが、もう仕方がありません。
 兄は、いつも妹の私たちを戒めて、「心さえ清ければ、もうそれでいいのだよ。貧しいのに豊かなように見せかけたり、破れたものをムリに破れていないように見せかけようとしたりするような、そういう心はよくない。女性たる者、そういうところを、よくよく心得ておかなければならないよ」と言っておりました。
 私には、そう言ってくれた兄の声が、今も耳の底に響いてくるような気がしてなりません』




松陰先生の令妹を訪ふ 記事
「日本及日本人 臨時増刊 吉田松陰特集号」
「松陰先生の令妹を訪ふ」記事
【参考文献】

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  • 著者は、皇學館大学文学部教授松浦光修氏。
  • より深く、留魂録、吉田松陰の死生観を知りたい方へ。
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