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幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地・水戸(茨城県)。 弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた「新論」は、松陰にも大きな影響を与えた。 このページでは、22歳の若き松陰が遊学した際、一時期滞在した地である水戸の松陰関連史跡をご紹介します。 【吉田松陰留学の地碑)】 吉田松陰が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけてである。 この地にあった永井政介宅に約1カ月余り滞在したが、その間、会沢正志斎・豊田天功等に師事し、 また水戸の青年有志と交わり、水戸の学問の真髄を学んだといわれる。 その精神は、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となった。 この詩は、政介の長子・芳之介に与えて志を励ましたもので、 石に刻んで長く松陰の水戸留学を記念するものである。(現地案内版より) ※松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。 水戸滞在の1ヶ月間のほとんどを永井宅に宿泊した。 碑の正面には「四海皆兄弟」で始まる吉田松陰直筆の詩文が刻まれている。 水戸駅前近くのNHK向かいにあり、当時の面影は全くない。 【会沢正志斎の屋敷跡】 会沢正志斎は藤田幽谷の弟子として学問を深め史館に入って修史に携わり、後に彰考館総裁となった。 また、第9代藩主・徳川斉昭やその子・15代徳川慶喜の師でもあった。 幽谷から正志斎へと発展した水戸学の思想は藩政改革の指導理念となった。 特に文政8年(1825年)にに著した「新論」は我が国体に基づいた大改革の構想を示したもので 幕末志士達の尊皇攘夷論の教科書として熟読され長州の吉田松陰、久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。 この辺りが、屋敷跡と言われている。(現地案内板より) ※松陰も何度か会沢正志斎の屋敷を訪れている。 松陰は正志斎の「新論」を、後に松下村塾のテキストとしても採用している。 現在は、市街地の中(住友生命水戸ビル)にあり、当時の面影は全くない。 【藩校・弘道館】 弘道館は、徳川斉昭が設立した水戸藩の藩校で、藤田東湖(藤田幽谷の子)、会沢正志斎を擁し、水戸学の総本山となった。 桜田烈士である関鉄之介らや、15代将軍・徳川慶喜も幼少より弘道館で学んだという。 水戸遊学の際、松陰も弘道館を訪れている。 管理人が再訪問した時は、先の震災で大きく破損しており、復旧工事が進められていた。 【徳川斉昭の像、徳川慶喜向学の地碑】 弘道館入り口付近に建つ水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の像と、「徳川慶喜向学の地」石碑。 斉昭は自ら設立した弘道館で、息子であり、後に徳川幕府最後の将軍となる慶喜を学ばせた。 【偕楽園】 日本三名園として知られる偕楽園は、1841年(天保12年)、徳川斉昭によって造園が開始され、翌年に開園した。 斉昭は、弘道館で文武修行する藩士の休養の場とすると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいとして「偕楽園」と名づけ、 その名の精神により当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていたという。 松陰も水戸遊学の際に、偕楽園を訪れている。 【常磐神社と摂社・東湖神社】 偕楽園隣りにある常磐神社(左)と、その摂社・東湖神社(右)。 常磐神社は黄門さまでお馴染の、2代藩主・徳川光圀と9代藩主・徳川斉昭を祭神とする神社。 東湖神社は、藤田幽谷の子である藤田東湖を祭神とする神社。 藤田東湖の著した「弘道館記述義」は、会沢正志斎の「新論」と共に志士達の間で愛読された。 【番外編 千葉県松戸・本福寺】 嘉永四年(1851)十二月十四日、江戸藩邸を脱して東北旅行に出た吉田松陰は、水戸に向かう途中、千葉・松戸に達した。 脱藩した松陰は追手を恐れ、旅籠を避け、この本福寺に宿泊したということが「東北遊日記」に記されている。 本福寺の門前には、「吉田松陰脱藩の道」という文字と松陰の辞世が記された石碑が建てられている。 また、境内には「吉田松陰当山に宿す」という石碑も建てられている。 吉田松陰の足跡をたどる旅(萩、下田、東京、下関)ページへ その他の史跡はこちら! 【吉田松陰に関する史跡データベース】 吉田松陰.comトップページへ |
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